教化伝道の根底にある「学仏大悲心」
(藤原 智 教学研究所助手)

 「教化伝道研修」第三期は、二〇二〇年六月に公開研修報告会・修了式を予定していたが、新型コロナウイルス感染症の状況に鑑み、研修期間を一年延長することになった。教学研究所ではその一年をフォローアップ期間と位置づけ、十月と十二月との二度、特別研修を行うこととした。なお、詳細は本誌二〇二〇年九月号の本欄(三十八~三十九頁)を参照されたい。
 当初、第二回特別研修は研修道場に集まっての一泊二日を予定していた。しかし、第三波とも言われる感染拡大の状況から、オンラインでの開催に変更した。それに伴い、予定を短縮し十二月八日、午前に松林至教学研究所嘱託研究員による発題、午後から楠信生研修長による講義、その後、班別座談という一日の日程とした。
 本研修会は、研修全体テーマである「真宗同朋会運動の願いに学ぶ」という原点を改めて確認しつつ、その願いの根底にある仏の大悲心を学ぶということを開催趣旨とした。これは第三期の研修の指針となる「研修のてびき」冒頭に掲げられた、楠研修長の次の言葉による。

私たちは、今一度、教化伝道の意味を一人ひとりの課題を通して尋ねながら、寺の存在意義の回復を求め、共に「学仏大悲心」を依り処とした二年間の教化伝道研修といたしたく思います。

 社会の急激な変容の最中にある昨今の状況下において、研修生・研修スタッフが、教化伝道研修の依り処である「学仏大悲心」を、本研修会において尋ね直した。
 

発題の概要
 松林嘱託研究員による発題は、まず「学仏大悲心」(『真宗聖典』一四七頁)という、善導大師の「帰三宝偈」の言葉を確かめることから始まった。そしてこの言葉に「仏の大悲心を学ぶ」と「仏の大悲心に学ぶ」という二つの確かめ方があることを取り上げ、この二つは重なり合い、両輪としてあることを指摘した。つまり、知識として学ぶ(~を学ぶ)ということの必要と、そこからわが身が知らされてくる(~に学ぶ)という二つの学びである。それを研修を貫く大事な学びの姿勢として確かめた。
 そこで、学びの姿勢に関する問題提起として、本誌二〇一七年四月号「教研だより」に掲載された、難波教行研究員のコラムを取り上げた。それは、宗祖の「われら」という言葉について、難波研究員が抱いた「他者をわれらと言えない」という実感をめぐっての文章である。その結論として、宗祖の頷いた「われら」とは、他者を「われら」と見いだすのではなく、本願に見いだされた「われら」なのであり、「われらと言えない」とは見いだす側にとどまる考え方であると指摘されていた。この難波研究員の指摘を踏まえ、これまでの研修でのあり方も「どうすればわれらと言えるか」だけになっていたのではないか、という問題提起を行った。
 続けて、同朋会運動の願いとして、「人類に捧げる教団」「世界中の人間の真の幸福を開かんとする運動」(本誌一九六二年十二月号巻頭言)と謳われていることを確認した。そして、それが私たちの実感として「大言壮語」のように聞こえてしまうことを取り上げた。しかし、そう聞こえる所には先の難波研究員の指摘と同様の問題、つまり「私に「人類に捧げる」と言う資格があるのか」という見方をしてしまっている問題がある、と。それでは、まずその資格を得てから何かしようということになるが、果たして同朋会運動の願いはそういうことなのか、と問いを掲げた。
 最後に住職として門徒との関わりから、寺院の私有化という問題を語った。つまり、門徒と共に法要をお勤めするという姿勢よりも──事実として僧侶の役割の重大さはもちろんであるが──主催者である自分がお客さんである門徒に来てもらおうという私有化の思いがそこにあるのではないか、と。こうして、同朋会運動の意味と難しさについて実感を込めて語った。
 以上、大悲されるものとして仏法に明らかにされる学び、という発題であった。
 

講義の概要
 発題の後、昼休憩を挟んで、楠研修長より「学仏大悲心──現代と聖教のあいだ──」と題し、講義が行われた。
 講義は、現在の不安多き状況について、一人ひとりの人間性を「利己主義」や「同調圧力」など様々なかたちで露呈させているが、少数者への配慮と全体として何が必要なのかを考える大事な時だと確認することから始まった。そして、そういう中での寺院のあり方を考えた時、法要を勤めるにしてもどう行うのか揺れるのが実際だとしつつ、だからこそ、その揺れの底にある、自分が本当に何をしたいのか、何を願っているのかを確かめることが大切だと指摘した。それは、もし普段通りにお勤めができたとして、本当に仏法に出遇う縁となっていたのか、という課題ともなる。
 そこで、宗教心で悩むことの大切さが語られた。ただ、悩めばいいというものではないが、悩んでいる根底にその元から支えて導いているものこそ真実の宗教心であり、他力の信である、と。つまり、信心において悩むのであり、信心が悩ませるのは、正しい道に向かって悩ませるということである。それによって生かされることこそが、一人ひとりに今願われていることではないか、と問題提起した。
 その上で、「帰三宝偈」の「学仏大悲心」について確認された。我々は、単に阿弥陀如来の本願のみを目当てとして学ぶと考えがちだが、ここで善導大師が言うのは「三乗等の賢聖がひとえに仏の大悲心を学んできた」ということであり、そのことを学ぶことが大切な視座だと指摘した。
 続けて、龍樹大士の「深く大悲を行ずれば(中略)一切衆生のために仏道を求むるがゆえに、名づけて「大」とす」(『真宗聖典』一六四~一六五頁)という言葉が取り上げられた。そしてこの「一切衆生のために仏道を求むる」について、私一人のために求めることであり、それが苦悩という所で一切衆生のためとなるのだとし、そういう学びをすることが、仏道を求めるということであると語った。
 こうした言葉を踏まえながら、同朋会運動が掲げる「人類に捧げる教団」とは、我々が陥ってしまう「利己主義」や「自国至上主義」を破っていく信念を我々に要求していくものだということが確認し直された。そして、今は厳しい状況であるが、本願が真であることを証明する大事な時を生きているのであり、苦しいけれども、念仏者は人それぞれ関わった苦しさを、教えを聞きながら突き破ってこられたのであって、その方々を先輩としていただいていることが力になるのだとした。
 最後に、「学仏大悲心」とは、止まった知識の所に仏の大悲心があるのではなくて、様々なところに大悲心を感覚していける、そういう感覚を取り戻していくことではないか、という指摘で、講義は閉じられた。
 

 以上の講義の後、班別座談を行い、各班の座談の内容を発表して研修は終了となった。ただ、日程短縮のため、座談に十分な時間が取れなかったことは否めない。研修生からの感想にも、この状況下でオンラインでも研修があるのは良かったという意見の一方、やはり対面での座談を求める声も多くあり、また講義は事前配信にして研修は座談だけにするなどの要望も出された。今後、より良い研修への課題としたい。
(教学研究所助手・藤原 智)

([教研だより(176)]『真宗』2021年3月号より)