医師として、国家公務員として、僧として、ハンセン病問題と闘った小笠原登師。その事績をたずねた映画を制作しておられる、映画監督の高橋一郎さんにご執筆いただきました。〔主な作品「もういいかい~ハンセン病と三つの法律~」他〕

 

小笠原登 医療の原点として

映画監督 高橋 一郎さん

 

●一人信ずる道を歩く

ハンセン病医療に生涯を捧げた小笠原登の記録映画「一人になる 医師小笠原登とハンセン病強制隔離政策」にとりかかって一年半、完成を目指して作業している。

小笠原は自らの患者臨床例の研究から、ハンセン病にかかりやすい体質に注目した。らい菌に感染してもハンセン病にかかりやすい体質でなければ発症することはない。らい菌を撞木、身体を鐘にたとえ、両者のバランスによって発症が決まると考えた。この認識から小笠原はハンセン病を強烈な伝染病とする国の絶対隔離政策に道理がないと結論した。「現在の医学は直接原因を偏重している。つまり撞木だけを知って鐘を忘れているのである。鐘が鳴るには撞木と鐘とが相応しなければならない。ハンセン病を論ずるには一面でらい菌を研究すると共に、他面においては人体についての感受性を研究すべきである」と主張した。

ここまでなら科学者として特別なことではない。事実、小笠原と同様の見解を持つ医師は少なくなかったはずである。しかしその医師たちは自説を引っ込めて国策に従った。1941年の第15回癩学会で小笠原が一人攻撃された話はよく知られている。小笠原を直接攻撃したのは数名の人物だが、その他は黙認するという形で攻撃に加担したのである。

小笠原は彼らとは違って具体的な行動をとった。患者には療養所への入所を積極的には勧めず、希望者にはハンセン病ではない病名をつけた診断書を書いた。国策を優先することなく、一人信ずる道を歩いたのである。その心の根本はどこにあったのか。それは徹底的に患者に寄り添う、患者の立場に立つというところにあったのではないかと私は思う。

 

●小笠原にとって患者は医療の主役

藤野豊著『孤高のハンセン病医師 小笠原登「日記」を読む』によれば、小笠原が患者の体調だけでなく、経済的な心配までする日記の記述が出てくる。京大皮膚科特研の時代、官費を使える患者七名の枠を患者間で融通させて、資力の乏しい患者を官費で治療し続けたとある。資力の尽きた患者を、他の患者の付き添い人として事実上入院させることもしばしばあったという。国立豊橋病院時代には週末に故郷の圓周寺へ帰り、寺の一室で診察したり、往診もしていた。貧窮の患者からは後払いという形で、診療費を取らなかった。この細々とした患者への心の砕きように私は頭が下がるのである。小笠原にとって医療の主役は患者であった。

 

●光田にとって患者は研究材料

ハンセン病医療のトップに長らく座り、絶対隔離政策の推進者であった光田健輔はどうだったのか。光田も研究熱心な医師だった。特に解剖には人並以上の執着を見せた。光田の解剖については神谷美恵子の記述が参考になる。神谷は精神科医として長島愛生園に勤務した人であるが、大学在学中に光田を慕って長島愛生園を訪れたことがある。そこでいきなり光田が熱心に死体解剖する様子を見学する。翌日光田は神谷に一日でも早く長島へ来てくれと勧めながらこう話す。「何しろ昨日解剖で見られた通り、ここには研究の材料が無限にころがっているんですからね。ただそれを使う人がないばかりに、むざむざ放って置くだけなんだ」。(※1)

光田にとって患者は「無限にころがる研究材料」だった。医療の主役は医師であり、医療技術だった。

 

●小笠原の現代性

ハンセン病に限らず、患者を材料として見るという光田的な医療は、「症状は診るが患者は診ない医療」という形でついこの間まで当たり前のように続いていた。そこに医療の主役は患者であるという概念が持ち込まれ、改革がある程度進んできたのが現在の日本の医療の姿だ。医療の主役は患者である、患者一人ひとりに違う生活背景があり、個性がある。患者は一人ひとりが違うという小笠原の考え方、捉え方はそのまま現代の医療課題へ通じるものだ。小笠原の思想がそれだけ進んでいたといえるし、時代がやっと小笠原に追いついてきたともいえる。小笠原を語る意味のひとつがそこにあると思う。

 

映画「一人になる 医師小笠原登とハンセン病強制隔離政策」より ●おわりに

映画製作では京大皮膚科特研、診察室の再現が楽しい作業だった。手掛かりは「天井から垂れ下がった一本のコードに裸電球が一個だけ、コンクリートの土間には古い大きな診察机と寝台、壊れかけただるまストーブ、その片隅に消毒薬を入れた剝げた洗面器。ガランとした殺風景な部屋」(※2)という描写しかない。ロケ場所は農家の納屋を借用した。イメージに近い映像になったと思う。裸電球は暗い世相に小さな灯りをともし続けた小笠原の象徴である。

 

※1 神谷美恵子著 新版『人間をみつめて』朝日新聞社(1974年)

※2 大谷藤郎著「小笠原登先生の思い出」(真宗ブックレット『小笠原登 ハンセン病強制隔離に抗した生涯』(東本願寺出版)所収、2003年)

 

《ことば》
「いま私たちは小笠原登が八十年前に予測した時代を生きているのです」
和泉眞蔵さん
(アイルランガ大学熱帯病研究所研究顧問)

(『真宗』2020年7月号より)

 

平成生まれの私にとって、ハンセン病問題と向き合うとはどのようなことなのか。「らい予防法」の廃止をとっても物心つく前であり、「歴史的な学び」に止まることがしばしばある。しかし、和泉先生の言葉から、歴史的な知識ではなく、身をもって「今」を考えさせられるきっかけをいただいた。

言うまでもなく、「元、患者」として生きておられる方、またそのご家族の方など、今もなお、この問題に向き合う方はたくさんおられる。しかし同じ時を生きながらも、その問題を歴史として受けとめてしまう私もいる。この言葉を頼りに向き合うべきものは、その方々の言葉、姿勢、願いとして表現される「熱」なのではないか。想像を絶するような当時の生活や人間関係の苦しみ、悲しみ、怒りを語る「熱」、そのような中でも小笠原登のような医師に出会えたという喜びを語る「熱」、この問題を歴史にしてはいけないという願いの「熱」、各々各所に尽きぬ「熱」がある。これらの「熱」と向き合っていくのが「予測した時代」を何気なく生きてしまっている私たちの姿勢ではないかと、心が突き動かされる。

(首都圏教化推進本部法務員 小笠原慧)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2021年1月号より