信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ

法語の出典:「正像末和讃」(『真宗聖典』503頁)

本文著者:亀井 鑛(名古屋教区珉光院門徒)


聞法友だちの女性Yさんの話です。

──用件があって病院勤務の友人の職場を訪ねると、あいにく非番で、「じゃあ、自宅へ行くから電話番号を教えて」と頼むと、「規則で教えられない」と断られ、カッとして「友人なのに何て冷たい職場…」と激しく言い争ったあげく、番号を問い合わせで調べ、友人を訪ねた帰り際、「さっき病院の受付でポンポン言っちゃったけど、悪かったわ。ごめんなさいと言っておいてね」と伝え、いくらか心が納まった。やり合った後、「私の頭が高かったかな」と、日頃の聞法から、自分の行いを振り返らされた。

聞法すれば、何より自分本位な偏り、執われが知らされ、見えてくる。「あ、またやっていた」と、頭の高さに気づかされ、自分の不明が破られる。

子どもからも、「お母さん。お寺で何を聞いてるの。そんなんじゃ母親も主婦も失格だよ」と一本とられると、「そうね。ごめん」と柔かく、軽く受けとめられる。そこでは娘とニッコリ笑いあえる。

マンションの隣りの奥さんが、向かいの奥さんを非難して、「あの人って引越されて以来今日まで随分世話してあげたのに、こないだちょっとしたこと頼んだら、愛想もなくお断りなのよ。どういう人、あれ」と憤懣いっぱい。聞きながら心の中で、「あ、相手を責めるんでない。まずは自分の計算高さ、当てにする心に原因があると気づかされていれば、ああまで言わずに、楽に受け流せるのにな。一度お寺の話を聞きに誘ってあげようかな」などと、相手の心の動きが見えて寄り添える──。

同朋会運動五十年、今日までの歩みで私は、人知(人間の知恵)だけでなく、仏智(仏の智慧)が人生の必須要件と学びました。仏の智慧とは智と慧からなり、親鸞聖人は慧を、「無明の闇を破する恵日」、智を「悪を転じて徳を成す正智 」といわれ、それぞれ「根本智」、「後得智」ともいうと学びました。破闇満願という言葉もあり、まず私たちは本当のことが明らかでない自分の闇が、破られねばならぬ。破るとは否定ですが、闇をなくす、やめる、すてるのでない。闇はなくならない。条件次第でいつも出ますが、闇だった、また出たと知らされることなら誰でもできる。知らされれば、闇が闇のまま闇でなくなる。

Yさんが友人の病院でやりあっているのは闇の姿ですが、聞法の影響で「頭の高い自分」と気づかされれば、自然と「謝っといてね」と向きが変わる。娘さんから母親失格と図星を刺され、「ごめん」と闇が破れ(慧)、母と娘が和む(智)。そして近所の奥さんの憤懣にも、道を踏み迷わず、方向を示さずにおれない。ひとりでにそうなっていく。それが智のはたらき、仏恩に報いるという身の動きなのでしょう。「南無せよ」が慧、「阿弥陀仏になる」が智。南無阿弥陀仏の智慧の念仏、それを我が身にうなずく信心の智慧です。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2017年版【11月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2017年版)発行時のまま掲載しています。

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