「災害と真宗史」
(上場 顕雄 教学研究所嘱託研究員)
自然災害などによって、突然大切な身近な人の死に接した時、あらためて人生のいろいろなことや「生」や「死」について考えさせられる場合が多いのではないだろうか。
災害といっても、「大地震」・「洪水」・「台風」・「旱魃」などがあるが、ここでは大地震と真宗史について紹介・試考してみたい。
親鸞聖人存命中、居住された地域で大地震に遭遇されたのは三度と思われる。聖人十三歳の比叡山時代・元暦二年(一一八五)、京都盆地北東部を震源とする大地震があった。現在の研究ではマグニチュード七・四と推定されている。
白河天皇(一〇五三~一一二九)が建立した法勝寺(現廃寺、跡地左京区岡崎付近)の九重の塔は倒壊をまぬがれたが、垂木などすべて落ちたと伝える(中山忠親『山槐記』)。比叡山も当然大変揺れたであろうし、聖人も生涯忘れない恐怖を体験されたと考えられる。
また、聖人らが関東から帰洛された後、七十三歳の寛元三年(一二四五)にも京都で大地震があった。同年には、聖人の末娘・覚信尼の夫・日野広綱が亡くなっている。覚信尼にとって悲しい残念な年時でもある。
『恵信尼消息』は、その大地震について何も語っていない。同消息は、すべて覚信尼宛で、私的なことを含む母子間の消息である。覚信尼の消息は現存しておらず、大地震を体験したことを、恵信尼に語った痕跡をみることはできない。『恵信尼消息』は、寛喜三年(一二三一)聖人が、佐貫(群馬県)の地で「衆生利益」のため『浄土三部経』を千部読誦しようと発願したが、中止したことを伝えている。当時、同地域で洪水被害か凶作であったと考えられている。母子は双方ともにこの事を深く理解していたのであろう。
なお、聖人八十二歳の時にも京都で大地震が起きている。
時代が下って、本願寺第八代蓮如上人時代も飢饉や疫病(伝染病)があった。長禄三年(一四五九)畿内一帯は二年連続の凶作で、京都では餓死者が毎日三百人程あったと伝えている(『大乗院寺社雑事記』)。また、寛正二年(一四六一)の飢饉や疫病では、周辺各地から難民となった人々が京都に殺到したといわれる。蓮如上人はこれらについて、『御文』や消息で何も語っていない。
また、本願寺第十二代教如上人時代の文禄五年(一五九六)に有馬、高槻、伏見ラインで大地震があった。それにより上人建立の「大谷本願寺」(大坂)が倒壊したが、上人は消息に何も記していない。
大地震や旱魃あるいは疫病などが生起した場合、平安期以降一般的に仏教界や神社界では、それの除去や、祈雨のために祈祷が行われてきた。
しかし、真宗は「祈祷仏教」ではない。さまざまな出来事を背負いながら、互いに助けあいをし、のり超えて人生や自己を考えていくのが真宗の特性の一つであろう。
(『ともしび』2021年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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