「変わる」
(藤原 智 教学研究所助手)

「子どもの時はニンジンが非常に嫌いだったが、今日では好むようになった」とは、清沢満之の言葉である(『清沢満之全集』第六巻、岩波書店、二〇〇三年、四五頁参照)。あまりに卑近な例で、逆に強く印象に残っている。内容は単純だ。人は変わる。

 

けれども、我々はしばしばそれを良しとしない。変化を認めることは、これまでの自分の言動が否定されてしまうように感じたりする。あるいは、首尾一貫しない人は信用できないと言われる。

 

とはいえ、自分自身を思うと、ある意味で昔とは大きく変わったなと感ずる。以前には「全くくだらない」と思っていたことでも、今では「それなりに面白いものじゃないか」と受け止めているといったことはしょっちゅうだ。

 

先日、ある映画を観た。その作品を通して示されていたのは「変化」であった。私はその変化を好ましいものと受け止め、映画館を出た時は「あぁ、良かったなぁ」と素直に思ったことである。その後、いくつかの感想を見聞きしたが、同様の感想をもった人は少なからずいた。しかし、反対の受け止めをしている人もいた。つまり、その変化は好ましくない変化だと言うのである。

 

そう言われてみれば、確かにその通りだとも思えた。そして、それは私自身に当てはまるようにも思う。かつての自分が「ああはなりたくない」と思っていた存在に、今の自分がなってしまっていると言われたら、その通りかもしれない。もちろんであるが、変化は必ずしも良いものとは限らない。ただ、先の映画に関しては、やはりそれで良かったと思う。

 

話は変わるが、何か問題を起こした人がいて、その人を信頼できるだろうか。あるいは見限ってしまうだろうか。見限ってしまう場合、大抵それはその人が――自分の期待するように――変わると思えないからではないか。「あの人はもう変わらない」と。しかし人は変わる。縁が来ればおのずと変わる。

 

如来は、上を転じて下とし、下を転じて上とする、という(「真仏土巻」聖典三〇八頁参照)。他力を信じるとは、つまりは人は変わるということを信じることでもある。そしてそれには、他人の前に、まず自分自身が変わらなければならない。

 

変化をするとは、今の自分がある意味で否定されるということ。そこには痛みが伴う。自分を否定されたい者などいない。だから、誰もが今の自分は間違っていないと、自分自身を正当化し、固めていく。それは変化を認めないということ。そして、他人の変化も認められなくなっていく。自分が変化しない者が、他人の変化を――その強要はするが――信じられるはずがない。

 

人を信頼するには、まず自分自身が変わらねばならない。自分の思い・価値観が揺さぶられねばならない。それは批判に対し、常に自分を開いているということ。そしてそれはとても怖いこと。しかし、縁は否応なしにやってくる。その時、そこに身を晒すことが、人を信じる第一歩なのだと思う。誰もが間違いを起こすけれど、また変わっていくのだ、と。

 

(『ともしび』2021年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)  

 

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