遠く宿縁を慶べ
(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』一四九頁)
自分の殻に閉じこもって、他者を避けたくなったり、生きづらさを感じたりすることがある。親鸞聖人は、孤独を感じ、あるいは生きる意味を見失う人びとに、どのような言葉をかけられていたのであろうか。
聖人は、『教行信証』総序で「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と言われている。
「行信を獲る」とは、念仏と、そのいわれである本願の信を獲ることである。この行信を獲ることが「遇(たまたま)」と言われている。「たまたま」とは偶然たまわったということであり、自分から求めても獲られるものではないことを示している。「たまたま」は、自分の努力やはからいで求めようとすることではなく、むしろ努力・はからいの破れにおいて、行信の獲得がもたらされることを表しているのではないか。
行信の獲得について、聖人は「遠く宿縁を慶べ」と言われている。縁とは、原因が結果を生むためのはたらきをするものである。宿縁は、遠い過去からの様々なはたらきがあることを表している。念仏もうすには、阿弥陀仏の本願や、その本願を源として流れだした念仏の法灯を伝える歴史など、はるか昔からの縁がある。「遠く宿縁」とは、私たちの思いや考えもおよばないほどはるか昔からの、多くの人々の思いや願いがつながってきたことを示唆しているのである。このような宿縁によって獲るにもかかわらず、私は己のはからいしか見ていなかった。
毎日の生活の中でもうしている念仏の一声一声の背景には、師、同朋、家族、先祖などの縁がはたらいていることが知らされる。しかし、縁とは自分にとって都合のよいものばかりではない。都合の悪いことをもまた含んでいるのである。念仏の救いには思いもおよばないほど広大な縁がはたらいていることを、親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と呼びかけてくだされたのであった。それは、善し悪しではからう、私の分別が破れたところに起こる慶びなのである。
念仏は誰でも、どこに居ても、どんな状態であってもできる易行である。親鸞聖人は、その一番易しい、誰でもできる念仏に宿縁がはたらいていることを明らかにされた。日々の生活のなかで、もうしてきた念仏は、実は日常の一つ一つの出来事に不可思議な縁がはたらいていることを示していたのである。私たちは、念仏の教えを通して、今、現にここに生き、いのちがあることには様々な縁があり、いのちがあること自体に願いがはたらいていることが知らされるのである。
私は、ものを持っているから、勝(すぐ)れているからなどの、付加したものに存在の意義を見がちであった。しかし、いのちがあることに、何らかの価値を付け加える必要はなかったのである。
現に私が生きているということ、そこに不可思議の縁がある。そのことが見えなくなっているから孤独を感じたり、生きづらくなっていたのであった。生きるということの背景には様々なご縁がある。本願を信じ念仏もうす身にさせていただいた事実について、「遠く宿縁を慶べ」と言われたことは、生きていること自体がよろこびであり、いのちは無条件に尊いことを教えていただいているのである。
(教学研究所所員・武田未来雄)
([教研だより(178)]『真宗2021年5月号』より)