十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。
(『教行信証』「行巻」、『真宗聖典』一九〇頁)

 

どんな人も摂(おさ)め取って捨てない──。『仏説観無量寿経』に説かれる「念仏衆生、摂取不捨」(『真宗聖典』一〇五頁)の経言に依って、宗祖は、本願の利益を随所に表している。表題の「行巻」の言葉には、「摂取して捨てたまわず」と敬語を用い、それが、人間ではなく、本願による利益であることを示している。

 

この「摂取不捨」という言葉を、長らく私は漠然と「本願のはたらき」といった言葉だけで捉え、分かったつもりになっていた。ところがあるとき、次のように問いかけられたことを機に、私自身が自らを摂め取って捨てないようにと願いながら生きているのではないか、と思うようになった。

 

「摂取不捨は、本来、人間の課題ではないでしょうか。」

 

たしかに「摂取不捨」は阿弥陀仏の本願のはたらきであり、仏から人間へと向けられた願いを言葉にしたものにちがいない。しかしそれ以前に、人間自身が自らや他者を摂め取って捨てたくない、という根源的な課題をもっているのではないか、と問いかけられたのである。

 

この問いかけを聞くとき、憶い起こす出来事がある。それは、私が十八歳だったある春の日のことである。同級生の友人が、車を運転して迎えに来てくれた。十八歳になった彼は、自動車免許を早々に取得していた。一方の私はというと、身体のコントロールを失う神経難病があり、運転などとてもできる状態ではなかった。

 

「こんな自分ではいやだ」。友人たちに取り残されていくようで、自分で自分を捨ててしまいたいような気持ちを押さえられなかった。病そのものの痛みではない、友人との比較の中から湧き起こる痛みがそこにはあった。

 

数年後、私は脳の手術を受け、身体のコントロールをおおむね取り戻した。そして「こんな自分ではいやだ」という思いは和らぎ、自分自身を捨てたくなるような気持ちもなくなっていった。言わば、自分で自分のことを「摂取不捨」できている──かのように思えたのである。

 

しかし、それは「こんな自分であるから良い」といった条件に基づいたものであり、「どんな自分であっても」という「摂取不捨」とは決定的に異なるものだった。人間が自らや他者を摂め取って捨てないと求めるとき、どこまでも「こんな自分だから」「こんな人だから」と条件づけすることを免れ得ないのである。

 

「摂取不捨」は人間の課題でありながら、私は私自身に対しても、そのことを果たすことができない。しかし、そうした人間の相──十方群生海を見そなわすがゆえに、本願は発されたのではないか。

 

宗祖の言葉はこう続く。

 

かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。(『真宗聖典』一九〇頁)

 

人間の課題を受けた、摂取して捨てないそのはたらきこそ、宗祖は「阿弥陀仏」であると名づけている。そしてそれは決して自らの力で成し遂げられるものではない、「他力」なのだと、今も変わらず条件づけしてやまない私に知らせ続けている。

 

(教学研究所研究員・難波教行)

([教研だより(175)]『真宗2021年2月号』より)