「宗門近代史の検証」研究班研究会報告
現如上人と北海道の開拓・開教

はじめに

本年二〇二二年は、東本願寺第二十二代現如げんにょ上人(大谷光瑩こうえい、一八五二~一九二三、在職一八八九~一九〇八)の百回忌にあたり、二月七~八日には現如上人百回忌御正当法要が厳修される。そのため現如上人の足跡、特に、北海道における開拓・開教の象徴的存在として参画した歴史を検証することが求められている。また二〇一九年は、東本願寺が北海道開拓を明治政府に出願してから百五十年にあたる。そのため近年、関連事項が整理され、これまであまり知られていなかった史料を紹介する歴史研究の成果が提示されている。

・『現如上人─その生涯と北海道開拓─』(真宗大谷派札幌別院、二〇一五年)

・「近代の東本願寺と北海道─開教と開拓─」(大谷大学博物館二〇一九年度夏季企画展、二〇一九年六月九日~七月二十七日)

・『東本願寺現如と北海道─「本願寺道路」着工一五〇年─』(同朋大学仏教文化研究所二〇二〇年後期史料展示図録、同朋大学仏教文化研究所、二〇二〇年)
 

現如上人の生涯については、一周忌にあたって「荘厳光院現如上人の御生涯」(『宗報』一九二四年二月号)がまとめられたことをはじめ、節目の法要の度に宗派機関誌でその足跡が確かめられてきた。その際、必ず取り上げられるのが「北海道の開拓」である。
 

北海道での東本願寺による布教の歴史をまとめた最初の書籍として確認できるのは、高橋寿太郎『北海道東本願寺由来』(北海道東本願寺由来編纂事務所、一九一二年)である。続いて、札幌別院での親鸞聖人六百五十回御遠忌法要厳修にあたって、一九一五(大正四)年に龍山厳雄編『北海開教記要』(龍山厳雄、一九一五年)が刊行された。題名に「開教」とあるものの、本文では「布教」あるいは現如上人による「巡教」として、その歴史が紹介されている。戦後、一九五〇(昭和二十五)年に「札幌別院創立八十年記念法要」記念事業として出版された多屋弘編『東本願寺北海道開教史』(札幌別院、一九五〇年)では、中国・朝鮮などへの開教に先行するものとして一八七〇(明治三)年の「北海道開教」が挙げられている。つまり海外開教の一環として、北海道での布教をとらえようとするものである。従来、根本資料の調査や吟味が不充分であったことに対して、同書では確実な資料に基づいて吟味調査し、これまでに刊行された諸書の誤りを訂正することに力点が置かれた。また、できるだけ真実の歴史を記録したいという思いから、伝説に対しても容赦なく批判のメスを加えるという姿勢がとられている。
 

一九六七(昭和四十二)年六月には、一九六九(昭和四十四)年の北海道開教百年を記念し、現如・大谷光瑩上人遺徳顕彰会から、現如上人の肖像画をお内仏に掲げることが推奨されている(『雷電峠を越えて─現如上人北海道開教秘話─』現如上人遺徳顕彰委員会、一九六七年、付録)。それは、現如上人が画工・秀崎秀華に依頼して、北海道へ赴いた十九歳の姿を描かせ、一八九五(明治二十八)年に札幌別院へ授与された「現如上人北海道開拓記念御影」である(『東本願寺北海道開教史』口絵、三〇九~三一三頁)。
 

そして一九七四(昭和四十九)年、多屋弘編『東本願寺北海道開教百年史』(真宗大谷派北海道教務所、一九七四年)が刊行されている。一九六九年に北海道開教百年を迎えることを契機として、一九六六(昭和四十一)年から北海道教区で史料収集が進められ、その成果が反映されている。史料に基づく緻密な論述は、今後の研究にも資する成果である。
 

以上の刊行物では基本的に、現如上人の北海道における行跡を、功績として顕彰する視点で、歴史が叙述されている。
 

そうした中、一九七七(昭和五十二)年十一月に大師堂爆破事件が起こることで、従来の歴史観に問い直しが迫られた。「爆薬による建造物破壊という事件としての面と、その決行声明にあった「東本願寺は日本国家と共にアイヌモシリを侵略し」という思想背景への指弾という両面にわたる問いが宗門に投げかけられた(注1)」。そのため、これ以降「現如上人と北海道の開拓・開教」は、問い直すべき歴史として語られる傾向が強くなった。
 

 

谷本晃久氏による講義「本願寺の北海道開教の歴史について」

このように相反する歴史観を前にして戸惑いを感じることから、本課題に取り組むための視点や方法を学ぶ機会とすべく、二〇二一年十二月二日、谷本晃久氏(北海道大学大学院文学研究院教授)にオンラインで講義いただく研究会を開催した。谷本氏は北海道地域史を専門とし、真宗史も含めた近世・近代の宗教史についての研究に取り組まれている。今回は「本願寺の北海道開教の歴史について」と題して講義された。
 

講義は「1 蝦夷地への仏教/本願寺「開教」の概要」「2 近世蝦夷地への制度的寺社建立」「3 近世の仏教寺院とアイヌ社会」「4 近代北海道開拓政策と仏教」「5 近代における宗教的環境の変換とアイヌ社会への布教」の五章にわたった。真宗以外の仏教諸宗派や神社の動向もふまえ、近世から近代にかけての歴史についてアイヌ社会との関係にも言及された内容であった。
 

以下では、講義の主要な内容を紹介する。
 

 

近世までの本願寺の北海道開教

蝦夷島えぞがしま(現・北海道)は近世、松前地まつまえち和人地わじんち)と蝦夷地えぞちとに区分されていた。松前藩によって和人の定住地と規定された「松前地」には、法的に認められた寺院が建立された。これに対して、アイヌ民族の居住地・交易地である「蝦夷地」への和人の往来は厳しく制限され、法的に認められた寺院は存在していなかった。
 

こうした蝦夷地へ幕府の宗教政策によって、一八〇四(文化元)年、「蝦夷三官寺えぞさんかんじ」が建立された。等澍院とうじゅいん(本寺・天台宗寛永寺、様似郡さまにぐん様似町)、善光寺ぜんこうじ(本寺・浄土宗増上寺、伊達市有珠町だてしうすちょう)、国泰寺こくたいじ(本寺・臨済宗金地院、厚岸郡あっけしぐん厚岸町)の三官寺は、和人を対象とした宗教統制を眼目としており、アイヌに対しては、僧侶の個別な布教を確認できるものの、積極的に布教していた訳ではなかった。
 

初めて蝦夷島へ浄土真宗を布教したのは、本願寺第八代蓮如上人の弟子である弘賢で、本願寺第九代実如上人から一五〇一(文亀元)年十二月二十八日に「夷嶋松前津」の弘賢へ宛てられた方便法身尊像が現存する。その子息・了明が一五一四(永正十一)年三月二十八日付で実如上人から授与された親鸞聖人御影には「浄願寺」という寺号が記されていた。ただし同寺はその後、奥州へ撤退する(『東本願寺北海道開教百年史』一四~一八頁)。
 

現存する最古の真宗寺院は松前專念寺(北海道教区第一組、松前郡松前町)で、その創立年については一五三三(天文二)年、一五三六(天文五)年など、諸説ある。この專念寺は東西分派後に東派となり、幕末まで、西本願寺の進出は松前地・蝦夷地ともに許可されなかった。なお專念寺は松前地に所在し、各地に掛所(出張所)や道場を設けるが、いずれも松前地であった(『東本願寺北海道開教百年史』三〇~四六頁)。
 

蝦夷地における真宗寺院の創建は、幕末になってからである。一八五八(安政五)年に願乗寺(西派)、一八五九(安政六)年に智惠光寺(東派)・量德寺(東派)、一八六七(慶応三)年に能量寺(東派)が知られる。
 

講義で取り上げられた中で特に興味深かったのは、一八五六(安政三)年に江戸下谷したや報恩寺(坂東報恩寺)が蝦夷地に掛所建立を願い出たことである(注2)。同寺は東派の浅草本願寺末と願書にあり、この申請が報恩寺単独の行動か、あるいは浅草本願寺や東本願寺の意向を受けたものであるのか、検討を要するが、現段階では判然としない。願書には、先年より「当寺出張之掛所」を建立したいと「有縁之者共」から申し出ていた、とあり、様々なルートから幕府へ働きかけていた模様である。
 

当時、蝦夷地への出稼人も増え、その中には当宗門有縁の者も多いことを出願理由としているため、追教としての側面が強いようである。そして出稼人などが集まる場所に出張掛所を建立して仏説を教諭することで、奥蝦夷まで宗風が貫かれることにより、追々、諸国末々の門徒共にも、荒野開発や品物の生産に精を入れるよう勧めることができる、という。明治以降の北海道開拓における移民奨励とも共通する方針と言えよう。
 

出願を受けて箱館奉行は、「一向宗之教法」を「偏執之習風」であるとしつつも、「邪教」(キリスト教)を防ぐには便利だと認識している。そして急速に開拓する一助として、寺院を建立して仏法が広まることを推奨して、寺社奉行に判断を求めている。最終的に寺社奉行はこの出願を許可しているものの、実際に報恩寺の掛所が蝦夷地に建立された形跡はなく、実現しなかった模様である。
 

 

近代における東本願寺の北海道開拓と新道切開

明治維新によって明治政府が成立して間もない一八六九(明治二)年六月五日に東本願寺は、その前月に政府から発せられた蝦夷地開拓御下問書の主意を承るとして開拓出願書を政府に提出した。そこでは、山中に一切道筋がない不自由な地であるので「新道切立」を申し出ている。この申請が、現如上人の指示で一八七〇(明治三)年に着工し、翌一八七一年に完成する「本願寺道路」へつながる。
 

この東本願寺の開拓出願書については、これまでにも知られていたが、谷本氏の講義では、同時期に浄土宗の増上寺が末寺建立を出願したものの、一八七〇年八月に却下されたことが紹介された。北海道開拓事業を担当した行政機関である開拓使による却下の論理は、次のようなものである。北海道では、神社を新しく建立することさえ容易に許容できない状況であるところ、寺院を創立することは不急のことであり、少しも開拓の益とはならない。そして寺院を建造できる金銭があるならば、「新道闢方ひらきかた」などにあてるべきだろう、と申し添えられている。このように、徳川家の菩提寺でもあった浄土宗増上寺の出願を却下したことは、明治維新を象徴していると言えるのではないか、と谷本氏は指摘された。
 

以上のように、新道の切り開きを仏教教団にも求めようとする政府の意向について、東本願寺は早々に察知したことで、その後の北海道での開拓・開教を有利に進めていくことができたのではなかろうか。
 

 

アイヌの門信徒と真宗寺院

北海道開教について検討する時、アイヌ民族との関係が重要な課題となる。それは先住民族であるアイヌに対する同化政策と連動した、侵略・差別をともなうという問題をはらむためである。
 

谷本氏は、西派の真宗寺院として一八九一(明治二十四)年に創建された光源寺(紋別市)を支えた門信徒にアイヌがいたことを紹介し、個別実証研究の必要性を提起された。明治二十年代から四十年代にかけての光源寺草創期は、和人とともにアイヌの門信徒がもつ経済力にも支えられていた。光源寺で一八九五(明治二十八)年八月に執行された「入仏式并供養会」の経費や永続講元金、また親鸞聖人六百五十回御遠忌懇志などに、アイヌの門信徒が出資していることを、谷本氏は同寺の所蔵文書から明らかにしている。そのアイヌの人々は漁場権益を確保した独立自営漁業者であり、そこでの収益をもって、真宗寺院を経済的に支えていたという(注3)。
 

 

おわりに

谷本氏による講義には、この他にも論点とすべき重要な指摘が多々盛り込まれており、講義録として『教化研究』第一六九号(二〇二二年六月発行予定)に掲載する予定である。
 

現如上人の生涯を振り返る時、これまでは明治以降の行跡にのみ着目されてきたように感じる。ただし一八五二(嘉永五)年に生まれ、一八五八(安政五)年と一八六四(元治元)年の二度、東本願寺の焼失に遭遇し、その後の両堂再建事業を目の当たりにしている。また十四歳となる一八六五(慶応元)年には父・厳如上人とともに、徳川家康二百五十回忌に際して日光へ参詣するなど、関東へ赴いている(関東参向)。このような若い時期における両堂再建と関東参向は、国家や社会との関係の中で、東本願寺の動向を模索する経験となり、明治以降における行動にも少なからず影響を与えたであろう。
 

これまで現如上人の時代の活動を「開教」として語ることには、疑問も呈されてきた。それは、開教を「仏教がまだ弘まっていない土地に教えを弘めること(注4)」とする場合、近世までの布教との関係をどのように考えるかが問われ、また先住民族であるアイヌに対する侵略・差別をともなうという問題をはらむためでもある。ただし当初、「開拓」における「布教」「巡教」という用語で説明されていたものが、しだいに「開教」と言われるようになったという変遷がある。そのため、このように語られるようになっていった背景を確かめていく必要があるだろう。そして前掲した開教百年までの刊行物では、アイヌへの言及が限定的であるという課題も有する。
 

二〇一五年六月に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を勤めた札幌別院から、同年に刊行された前掲『現如上人─その生涯と北海道開拓─』に掲載された座談会(二〇一四年九月二十九日開催)で、竹内渉氏(北海道アイヌ協会事務局長・当時)が次のように発言している。
 

過去のできごとを現在の価値観で判断することは、危険を伴います。その時代背景などを含めて考えないと、間違った判断に陥りやすくなります。また、「偉業」か「侵略」か、という二者択一的な評価もするべきでないし、できないだろうとも考えています。複雑に絡み合った歴史をじっくりと見つめてみたいものです(注5)。


 

これまで「北海道の開拓・開教」については、国家政策との関連やアイヌ民族差別の問題を意識しつつ、総体的な歴史叙述がなされてきた傾向にある。しかし地域によって、あるいは寺院・道場ごとに、個々の歴史がある。まずはその一つ一つの事象を史料に即して明らかにしていく作業の蓄積が必要となる。それは、ある価値観にしばられた歴史観から解き放たれる可能性をもたらすのではなかろうか。 

現如上人百回忌を、複雑に絡み合った歴史の解きほぐし方を模索する起点としたい。 

(教学研究所研究員・松金直美)

(「教研だより187」『真宗』2022年2月号より)

 


(注1) 解放運動推進本部アイヌ民族差別に関する学習資料集編集委員会編『アイヌ民族差別に関する学習資料集 共なる世界を願って』(真宗大谷派宗務所出版部、二〇〇八年、七六頁)。

(注2) 「箱館奉行書類之内白主会所留記」(『大日本古文書 幕末外国関係文書』之十三、一八四・一八五号文書、史料編纂掛、一九二〇年)、谷本晃久「幕末期、蝦夷地への寺院建立と開拓政策」(『近世蝦夷地在地社会の研究』山川出版社、二〇二〇年)。

(注3) 谷本晃久「アイヌ社会との出会い」(『北海道の西本願寺』北海道開教史編纂委員会、二〇一〇年)。

(注4) 『真宗新辞典』(法藏館、一九八三年)。

(注5) 「座談会 北海道開拓・開教にかかわる大谷派の課題について」(『現如上人―その生涯と北海道開拓―』真宗大谷派札幌別院、二〇一五年、八九頁)。