道心に生きる人は若い
(藤原 智 教学研究所助手)
先日、ある場所で標題の言葉を耳にし、反射的にメモしていた。初めて聞いた言葉だというわけではない。むしろ聞きなれた言い回しである。それにもかかわらず、なぜその言葉をメモしたのだろうか。恐らく、今の自分にとって何か響くものがあったのであろう。お前は道心を見失っているのではないか、そう言い当てられたと本能的に感じたに違いない。
自分のことはいつまでも若いと思っているものだけれど、実際に若かった時、真宗学を学び始めた学生のころ、知識はなくとも何かを聞き取ろうとしていたように思う。そして、自分なりに頷くものがあったのだろう。それから、いわゆる研究というものが始まった。
そうこうしているうちに、自分なりに親鸞聖人の思想のイメージが出来上がってくる。もちろん、研究という場であるからできるだけ客観的に、つまり誰が見ても納得できるように論じようとはしている。大局的な点から、あるいは微細な点から、一度結論付けたことでも後から見直しては打ち崩し、修整を加え、自分の中で親鸞聖人像というものが構築されていく。こうして聖人像が固まってくると、それで自分に確かなものができたように思え、満足を覚えているのである。
ところで、親鸞聖人に対して思いを抱いているのはもちろん私一人ではない。そして恐らく、親鸞聖人を慕う人の数だけ、大なり小なり異なる聖人像がある。それが分かっているから、不真面目かもしれないけれど、大抵の場合、人は人、私は私としておいておく。あるいは、その異なりの由来を研究史上の課題として客観的に尋ねることもある。
ただ、自分のこだわっているところで異なることを主張されると腹が立つのだ。特に自分より年若い人だと、なおさらである。しかも、年々その年下が増えてくるのだ。立てなくていい腹が立つのは、自分の中で確かにしてきたことが脅かされるという危機感なのだろう。そうして攻撃的になっていく、「お前らに何がわかるんだ、俺の考えに従って研究しろ」と。「確かなもの」といっても、この程度のものでしかなかったのである。このような私の心中とは異なって、探求を止めない先輩たちがいる。年齢の如何ではない。今の私自身の姿勢そのものが問題なのである。
無一物として何かを聞き取ろうとする、そういうことができなくなってもうずいぶん経つ。その後ろめたさが、心の奥にいよいよ積もっているのだろう。思わずメモ書きした、その自分の行動に戸惑いを覚えている。
(『真宗』2022年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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