煩は 身をわずらわす 悩は こころをなやますという

法語の出典:「唯信鈔文意」『真宗聖典』552頁

本文著者:花園一実(東京教区圓照寺候補衆徒)


今月の法語は『唯信鈔文意』の「具縛の凡愚」という言葉について、親鸞聖人が解説されているものです。具縛の凡愚、それは「よろずの煩悩にしばられたるわれら」であると言われています。「煩悩」と聞くと多くの人は、こんこんと湧き出る人間の欲求のようなものをイメージされるかもしれません。しかし煩悩には「縛」「結」「蓋」「纏」などの異名が示すように、人間の心身を押さえつけ、自由を奪うという一面があると言われています。その束縛された不自由な状態の中に、常に「わずらい」「悩み」を抱えながら生きているのが、仏教から見た私たち人間のあり方なのでしょう。

しかし当の私たちは、日常生活の中で不自由を感じながら生きているということが、どれほどあるでしょうか。思えば、物質的に見れば、現代ほど自由な時代はありません。親鸞聖人の時に比べれば、今は車や飛行機に乗って短時間でどこにでも行けますし、携帯電話があれば、いつでも気軽に他者とつながることができます。コンビニは深夜でも煌々と明かりを灯し、インターネットがあれば家から一歩も出ずに好きな物が手に入るのです。

しかしながら、そのように便利になった生活の一方で、はたして人間の心は自由になっていると言えるでしょうか。近い将来、リニア新幹線が開通すれば、東京と大阪をわずか七十分弱で行き来できるようになると言われますが、それによって生活にゆとりが生まれるかといえば、そうは思えません。速く移動できるようになれば、その分だけ時間に追われるのが私たちだからです。同様に、いつでも連絡が取れる気軽な関係は、相手のことを思い続ける時間を減らします。ネットやコンビニの隆盛は地域交流の場を減らし、また人間が一人で生きていけるかのような錯覚を助長しています。

これは、どちらが良いという話ではありません。ただ、どれだけ世の中が便利になったとしても、むしろ人間は孤独になっていくし、生きることの空しさは増えていくばかりなのではないかと思うのです。そのように、人間が自ら手に入れたものによって苦悩する有り様を、『仏説無量寿経』には、

心のために走せ使いて、安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。

(真宗聖典五八頁)

と教えてくださっています。

私たちは誰でも便利で快適に、思い通りに生きたいと思う。そして、その快適さの先に本当の安心が待っていると思い込んでいます。しかし内実は、むしろその自由を求める心によって、縛られ、苦しんでいる、心の奴隷になってしまっているのだということを、私はこの言葉によって教えられます。

思えば阿弥陀仏はもと国王でしたが、世自在王仏という名の仏に憧れて仏道に入ったとされています。国いちばんの権力者であっても、本当の自由と安心は得られなかった。だからこそ「世において自在」なる、その仏のお姿に心を惹かれたのではないでしょうか。「自在」とは、どんなに不便であっても、わずらわしくても、自らが自らとしていまここに在る、その一点に心から満足していけるということなのでしょう。その教えのエッセンスは「南無阿弥陀仏」という名号となって、過去に後悔し、未来によりよい理想を求め、今の自分自身と本当に向き合えない、煩悩に縛られ続けている私たちのあり方を照らし出しているのです。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【10月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

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