震災十一年と3.11伝承ロード
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)
教学研究所の「震災と原発」問題研究班は、二〇一三年より三・一一(東日本大震災と原発災害)について調査研究する一貫として、毎年の震災の日を中心に被災地訪問を続けている。過去二年は新型コロナウイルス感染症のため訪問を見合わせていたが、本年四月二十日より再開した。ここでは被災地訪問の一端を報告する。
震災十一年
三・一一による犠牲者は、全国で死者一万五九〇〇人、行方不明者二五二三人、震災関連死者三七八六人を数え、現在も三万八一三九人が各地で避難生活を続ける(読売新聞、本年三月十二日)。昨年より死者は一人増え、行方不明者は三人減り、関連死者は十一人増え、避難者は三一〇二人減った。
福島県相双地方(浜通り北部)の双葉郡にある大谷派の原発被災寺院の情況も変わった(本年四月末現在)。富岡町の西願寺は一昨年、双葉町の正福寺はこの春、本堂など境内地建物の解体を終えた。西願寺には鐘楼山門と墓地が残り、境内地の除染が進められている。浪江町の正西寺は本堂の修復が成り、震災の日には追弔法要が勤まった。四月末には教区の被災地学習会を引率するなど、寺院での生活が始まっている。
十一年前の「あの日」に出された「原子力緊急事態宣言」は今もなお続いている。発災と強制避難にはじまる年月のなかで、「復興」の意味合いも変わった。「復興」とは、決して発災前に戻る「復旧」ではなく、まったく別の世界をつくるものであることを、原発被災地の今は語っているようだ。
相次ぐ地震と教区最後の「集い」
三月十一日十四時四十六分、今年も原町別院(南相馬市原町区)などで「勿忘の鐘」がつかれた。震災の日が過ぎて間もない十六日二十三時三十六分、福島県沖で発生したマグニチュード七・四の地震により東日本各地が被災した。特に最大震度六強の地震に遭った宮城・福島両県は、東北新幹線脱線事故や屋根など家屋への被害があった。
この地震で多くの大谷派寺院門徒が被災した。福島県相双地方は、昨年二月十三日にも最大震度六強の地震があり、その傷が癒える間もなく二年続きの被災となった。寺院には堂宇・墓地の損壊、仏具・祠堂札の落下など、地域によっては十一年前を上回る被害があり、相馬市の正西寺は山門と鐘楼が倒壊した。
また、南相馬市鹿島区にあり、「浄土真宗本願寺派福島県復興支援宗務寺務所」が置かれている本願寺派勝縁寺は、堂宇や庫裏などに深刻な被害を受けた。原発から三十三キロにある勝縁寺は、三・一一被災者支援の拠点として、地震・津波・原発災害という複合災害に遭った鹿島区と門徒を支えてきた北陸真宗移民ゆかりの寺院である。
このように新たな地震被害が重なるなか、三月二十六日、仙台市で仙台教区東日本大震災復興本部主催「三・一一東日本大震災・心に刻む集い」が開催された。ステージで語られるウクライナの今を、被災により故郷を追われた経験を持つ教区の人々はどのように聞いたのであろうか。七月より東北教区に改編される仙台教区にとって、第六回となる今回が現教区として最後の開催となる。これから、三・一一にどのように向き合っていくのであろうか。
3.11伝承ロード
近年、三・一一の記憶と教訓などを伝えることを目的とし被災各地に設置された「震災伝承施設」を国土交通省がとりまとめ、「3.11伝承ロード」として紹介している。
宮城県仙台市若林区の「震災遺構 仙台市立荒浜小学校」と「せんだい3.11メモリアル交流館」は、今は居住が許されなくなった津波被災地域の記憶を伝える施設である。
同県名取市の「津波復興祈念資料館 閖上の記憶」は閖上中学校被災に由来する施設であり、ここで語り部の方よりお話をうかがった。近くにはかつて閖上小学校・中学校にあった石碑や慰霊碑を集めた「閖上プラザ」がある。
福島県浪江町の「震災遺構 浪江町立請戸小学校」と「大平山霊園」は津波被災に加え、原発災害の記憶を伝える(『真宗』二〇一八年六月号本欄参照)。同じ請戸にあり、津波に破壊された共同墓地の遺物は、「先人の丘」として整備された墳丘に収められていた。
同県双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」は被災を伝える資料約二百点を展示するなど、学び、考え、(当事者の声を)聴くための施設であり、各被災地の情報も多い。
同県富岡町の「東京電力廃炉資料館」は東電が設置した施設であるが、今回も原発事故以前の地域と被災住民の姿が見えてくるような展示は見えてこなかった(『真宗』二〇一九年六月号本欄参照)。
同町には三・一一を地域の歴史に刻むことを目指し、昨年開館した「とみおかアーカイブ・ミュージアム」がある。この館は他の施設とは異なり、三・一一以後のみでなく、それ以前の地域の歴史を多く展示している。資料を保全し、古代から現代までの「日常」を積み上げることで各時代の富岡が復元されている。展示から、かつてこの町で営まれていた生活と住民の姿を知り、原発事故で流離せざるを得なかった住民たちの今に想いを馳せる。やがて起こりうる原発事故によって何が失われるのか。館内の展示は問うている。
当事者の声を聞く
各地を巡るなかで、仙台市の仙台教務所と仙台組海楽寺でお話をうかがう機会を得た。
東北別院と隣接する仙台教務所は、発災以来、救援・支援活動の拠点であった。昨年は震災記録集『勿忘の刻』を発行し、震災記録の収集(ナムナムポストプロジェクト)などを続ける。震災の発生から救援期を知る職員の多くが入れ替わり、被災地視察への対応や各地との支援交流を続けるなかで「まだやっているの?」という声もあるが、「やがて大きな災害がくる。東北に学ばなければ」という声もあるという。
この六月末で現地復興支援センターは閉じ、業務は東北教区の東日本大震災復興支援本部に引き継がれた。「忘れない」という声を共有しながら、震災十三回忌に向けた取り組みが始まっている。
海楽寺では、門徒総代長の大友一雄氏と海楽寺の方々にお話をうかがった。海楽寺がある井戸浜は、津波被災により住職(当時)と門徒十四名が犠牲となった。行政が一時津波の危険性が高い地域としたこともあったが、大友氏はこの地で農業法人を立ち上げ、現在はネギ栽培を軌道にのせている。
海楽寺本堂にて(撮影著者)
海楽寺も現地での復興が危ぶまれた。
「お寺をどうするのか。最後は住職の姿勢です」と総代長は語る。
「ここで寺を復興するという意志が門徒の根底にありました。住職も同じ考えでした。ここなんだ、と。ではどうするのかという問題がそこから始まりました。その時に大きな支えとなったのは、本山の支援でした」。
海楽寺の復興を支えたのは、「ここに寺を再建して生きる」という住職の覚悟と、この土地で生きるという門徒の決意があり、さらに本山や教区、宗派ボランティアの支援があった。そのどれが欠けても復興はなかったという。
「寺は人と人とのつながりを再確認できる場所。震災後はずっとその想いでここにいました。これから新しい人も入ってくるでしょう。人がつながるきっかけをつくることも、寺の役割だと思います」(住職)。
「勿忘の鐘も地域の人が集まるようになりました。お寺と人を世代を超えてつなげていく意味が、この行事にあると思います」(総代長)。
ここで生きる。住職と門徒が強い意志を共有していたことが復興の道を開いたことを、心に刻んでおきたい。
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この後、岩手県陸前高田市で震災問題について対談の場をもった。詳細は『教化研究』一六九号に特集として掲載を予定している。
(教学研究所研究員 御手洗隆明)
([教研だより(193)]『真宗』2022年8月号より)