仏典を「読む/聞く」ということ
(名和 達宣 教学研究所所員)

ある先学から贈呈いただいた本を読んでいた時、不思議な出来事が起こった。読み進めるほどに、なつかしい〝響き〟が聞こえてきたのである。
 
いただいた本の題名は『弥陀の本願信ずべし』。大谷専修学院長を務められた信國淳師の聞書である。編集をされたのは、大谷専修学院の北海道同窓会役員を中心とする、師の講義(話)を直接聞いてこられた方々。講義ノートに沿って話された箇所と、ノートから離れて敷衍して話された箇所とでフォントを変えるなど、一見して明らかに、とても丁寧に編集作業をされた跡がうかがえる。きっと、長期にわたる編集を進めていく中で、師との対話が繰り返されたのだろう。
 
私自身は、信國師と直接には出会っておらず、大谷専修学院の同窓生でもない。しかし、大谷大学に通っていた頃に、専修学院との縁が深かった中川皓三郎先生を通して、その言葉に触れる機会を得た。ちょうど『新編 信國淳選集』(樹心社、二〇〇五年)が刊行されてすぐの時期で、週に一度、中川先生の研究室に集まり選集を輪読する会に、私も参加させていただいたのである。また、録音ではあるものの、選集に付録のCDにより、信國師の声に触れることもできた。
 
このたび、なつかしく聞こえてきたのは、その輪読会中に印象深く感じた「根無し草(Déraciné)」や「a-mitaなるいのち」といった言葉の〝響き〟である。さらに不思議だったのは、最初は信國師の声として聞こえていたのが(CDを通して記憶していた)、途中からは、あたかも中川先生が今現に語りかけてくるような聞こえ方がしてきたという点である。これはおそらく、学生時代、先生と一緒に「声に出して選集を読んだ」という経験に根差しているだろう。このたびの出来事にかぎらず、これまでにも、ある仏典の言葉を読んだ時に、往年の学習会や法話などの場で聞いた声が響いてくるということが、幾度となくあった。それはいずれも、同様の経験に基づくにちがいない。
 
そもそも、仏典を「読む」ことは、最も基礎的な仏道修行の一つであり、「読誦」と呼ばれる。そこにおいて何よりも重要なのは、〝声に出して読む〟ことである。近代以降、黙読の文化・慣習が浸透しているが、元来、仏教の学びにおいて「読む」とは、基本的に音読を意味していた。
 
そして「読む」とは、文字の表面を追うにとどまらず、自らの声、共に学ぶ方々の声を通して、言葉自体にそなわる響き、ひいては根底に流れる願いを聞くことにほかならない。そのため、仏典を「読む」とは、すなわち「聞く」ことである。また、決して個人的な営為ではなく、深い叡智の歴史に身をひたすことを意味するだろう。
 
経のはじめに「如是我聞」とあるように、仏教とは、単に説かれた教えではない。その説かれた声を、確かに聞き取った人により伝承され、「読む/聞く」べき言葉として遺されたものである。仏典を「読む/聞く」ことの〝難〟がいよいよ露わとなった今、その根本的要因を探究し、ほどくことこそが、教学の使命ではないか。

(『ともしび』2022年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

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