瓦の技術は、仏教伝来とともにもたらされ、最古の瓦は奈良県の飛鳥寺のものとされています。
当時、瓦は貴重で都が遷都すると瓦も運び、そのまま新たな建造物に葺き替えられました。製瓦の技術が仏教とともに伝えられたことからか、瓦の語源はサンスクリット語で皿や鉢を意味する「kapla(カパーラ)」から来たとの説があります。しかし、その他にも甲冑を表す「かはら」に由来するという説や、瓦は土を焼いて板に変えることから「変はる」が「かはる」、「かはら」に転訛したというなど多くの説があり定かではありませんが、仏教とともに伝わったことを考えると面白い説だと思います。
奈良時代になると、瓦は全国に国分寺・国分尼寺の建立とともに製造技術や葺き方も伝わりましたが、平安時代には当時として高価であったため、瓦の使用は減少しました。
戦国時代になると、戦国武将の築城に瓦が使われるようになり、各地で瓦職人が活躍するようになります。京都では、伏見城や方広寺の瓦を焼くための職人が各地から集まり、職人の集落がつくられるようになりました。現在も京都市伏見区深草瓦町や東山区大仏南門通東瓦町及び本瓦町という町名が残っており、伏見城を築城した職人たちの子孫が居住しています。また、この頃、明(中国)の一観が御影堂の瓦などに見られる「燻し瓦」の製造法を伝えたといわれています。
江戸時代になると、一国一城令が出され、また江戸の民衆に瓦葺きの禁止がなされるようになりました。しかし、江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたほど火事が多く、何度も大規模な火事が発生しました。そして、第八代将軍徳川吉宗が、火災で木や藁葺きの民家を延焼から守るため瓦葺きを推奨したことから民家にも普及しました。この普及に一役買ったのが、一説には、近江国大津(現在の滋賀県大津市)の瓦工で、三井寺の御用達を務めていた西村半兵衛が1674年に発明したといわれる桟瓦でした。
それまでは、丸瓦と平瓦を交互に葺き上げていく方法で非常に重く、建物自体の構造がしっかりしていないと葺けませんでした。一方、桟瓦はゆるやかなS字に成形されており、隣の瓦とかみ合わせていくことにより、丸瓦を必要とせず軽量化され民家でも瓦を葺くことができるようになりました。
その後、三州瓦(愛知県西部)、淡路瓦(兵庫県淡路島)、石州瓦(島根県西部)の「日本の三大瓦」をはじめ、その地の気候や風土にあった瓦が日本各地で生産されていきました。
協力:寺本甚兵衛製瓦