地域真宗史フィールドワーク報告 親鸞聖人の誕生・遷化の伝承地
(松金 直美 教学研究所研究員)
はじめに
二〇二三年三月から四月にかけて厳修される「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」を迎えるにあたり、教学研究所では、法要を営む原点と視座を確かめてきた(教学研究所編『教化研究』第一六五号「特集 立教開宗の精神」二〇一九年、教学研究所「親鸞聖人の御生涯──「御誕生」と「立教開宗」の原点──」『同朋新聞』二〇二三年二月号)。
親鸞聖人(一一七三~一二六二)の御誕生については、十八世紀前半に刊行された高田派の親鸞聖人伝で、四月一日という月日が明示されるようになり、十九世紀前半に、本願寺派で誕生の地を確かめようとする動きが始まった。また相前後して、親鸞聖人の遷化(入滅)地についても、さまざまな場所が提起されてきた。これらは、浄土真宗の教えを聞法する人々が、親鸞聖人の御生涯を確かめようとしてきた歩みと言えるだろう。そこで、親鸞聖人の史跡が顕彰されてきた歴史と人々の思いをたどるため、二〇二二年四月八日ならびに二〇二三年二月三日、筆者は武田未来雄所員・三池大地助手とともに、「親鸞聖人の誕生・遷化の伝承地」をめぐるフィールドワークを実施した。
一、親鸞聖人誕生の伝承地
親鸞聖人は、日野の里(京都市伏見区)で誕生したと伝えられている。それについて記した最も古い文献は、一八二六(文政九)年に長州常元寺(山口県下関市、浄土真宗本願寺派)の聞歓(僧糠)という僧侶が書いた『聖人御降誕地由縁』(龍谷大学所蔵)である。聞歓は、西本願寺第十九世本如上人(一七七八~一八二六)の命を受けて、親鸞聖人の降誕地を確定させようと調査したようである。『聖人御降誕地由縁』では次のように由縁を語る。光仁帝(七〇九~七八一)の時代である天応年間(七八一~七八二)頃に、日野内麿の嫡男である真夏が、日野の里を下賜されて、この地に御殿を移した。また八二一(弘仁十二)年には日野家の菩提寺として法界寺が建立された。その後、日野有範の子として親鸞聖人が日野の里にある御殿で誕生した。そのため、この地に「聖人御誕生寺」を建立したい、と述べている。
二〇二二年四月八日、まず法界寺(真言宗醍醐派、京都市伏見区日野西大道町)を訪問した。阿弥陀堂に木造の阿弥陀如来坐像が安置されており、建物・木像ともに平安時代のものである。親鸞聖人が拝されていた可能性もあるとして、親鸞聖人の史跡をめぐる人々が参拝することも多いようであった。
法界寺の東側に「日野御廟所」があり、親鸞聖人の家族の墓所となっている。父・有範、母の名と伝える吉光女、九歳で剃髪する際に同行した伯父・範綱、末娘・覚信尼の墓が安置されていた。
続いて日野御廟所の南西にある日野誕生院(浄土真宗本願寺派、京都市伏見区日野西大道町)へ参拝しようと思ったが、整備工事中であり、叶わなかった。そこで二〇二三年二月三日に再訪した。本願寺飛地境内地である日野誕生院の主管・酒井隆哲氏に案内いただき、修復工事が完了したばかりの誕生院境内と、隣接する敷地内にある産湯の井戸、胞衣塚【写真1】、俳人・菊舎(一七五三~一八二六)の句碑を拝見した。菊舎とは、誕生地を調査した聞歓と交流のあった女性である。長門国豊浦郡田耕村(山口県下関市)で生まれ、早くに夫と死別し、真宗寺院で剃髪している。菊舎は聞歓からの依頼を受けて、都からの聞き伝えをもとに、長門国で、親鸞聖人の降誕地にまつわる句を詠んだのである。「宗祖降誕地 流風無量水 いく春もたへぬ産湯の流かな 長門菊舎」と刻まれた句碑は、宗祖降誕地を象徴するものとして、大切に受け継がれてきた(児玉識「近世後期西本願寺における教団活性化運動の一形態──宗祖降誕地の開発をめぐって──」『近世真宗と地域社会』法藏館、二〇〇五年、初出二〇〇一年)。
【写真1】親鸞聖人のへその緒が埋められたといわれる「胞衣塚」(日野誕生院)
日野御廟所について前掲したが、親鸞聖人の父・有範の墓があると伝承する地はもう一つある。京都から南方に位置する三室戸寺(本山修験宗、宇治市莵道滋賀谷)である。西本願寺所蔵の『無量寿経』に記された、本願寺第三世覚如上人(一二七〇~一三五一)の長男・存覚上人(一二九〇~一三七三)による識語に「御室戸大進入道殿有範 上人御父」とあり、親鸞聖人の父・有範は出家して三室戸に隠棲していたとみられる(本願寺史料研究所編『増補改訂 本願寺史』第一巻、本願寺出版社、二〇一〇年、七~八頁)。一七八七(天明七)年刊行の『都名所図会拾遺』巻四には、親鸞聖人の父である有範の墓があると記されており、一八五八(安政五)年刊行の僧純著『皇都霊跡志』には、有範が出家して隠棲していたとある。
二〇二三年二月三日に訪れ、同寺の阿弥陀堂が、日野有範の墓の上へ、親鸞聖人の娘・覚信尼によって建てられたものと伝えられていることを確かめた。親鸞聖人のルーツにまつわる伝承地として、知る人ぞ知る地と言えよう。
二、親鸞聖人が居住した五条西洞院
二〇二三年二月三日の午後、まず光圓寺(真宗大谷派、下京区松原通新町西入藪下町)を訪問した。同寺は、二〇一一年一月十九日付で「親鸞聖人洛中寓居跡」として真宗大谷派の宗史蹟に指定されている。覚如上人が、親鸞聖人の行状をまとめた『親鸞伝絵』(『御伝鈔』)にある、次の記述に基づいている。親鸞聖人が故郷(洛中)に帰ってから、洛中の所々を移住していたが、「五条西洞院わたり、一つの勝地なりとて、しばらく居をしめたまう」(『真宗聖典』七三四頁)。同寺は松原通に面しているが、現在の松原通は旧五条通であるため、同寺の所在地が五条西洞院にあたる。
また同寺の門前に建てられている石碑には「親鸞聖人御入滅之地」と刻まれている。このような伝承を記した文献で最も古いのは、一五六八(永禄十一)年の光教寺顕誓著『反古裏書』である。東国から帰京した後、親鸞聖人は所々に居住していたと聞き伝えるが、まず「五条西洞院ニ住セタマフ。コレ御入滅ノ地ナリ」とある。
一七七一(明和八)年刊行の『大谷遺跡録』によれば、光圓寺の敷地は九条兼実(一一四九~一二〇七)の下御屋敷で、一二〇一(建仁元)年十月五日に、二十九歳の親鸞聖人が移住して「西洞院御坊」と称した旧跡という。また一八〇三(享和三)年に刊行された『二十四輩巡拝図会』巻之一では、光圓寺について、次のように紹介している。「花園光圓寺」と号し、九条兼実の御別荘である。建仁の頃(一二〇一~〇四)、親鸞聖人はこの殿に移住され、また六十余歳で関東から帰洛ののち、居住して、「西洞院花園御坊」と称した。光圓寺の近隣には浄土宗の大泉寺(下京区万寿寺通西洞院東入月見町)があり、同寺にも同様の伝承がある。前掲『二十四輩巡拝図会』巻之一によれば、法然上人の教化によって剃髪した九条兼実が「月輪の禅定 円照」と号して隠居した別殿の旧跡という。親鸞聖人が月輪殿下の娘・玉日と結婚して同居していた場所とも伝える。また御殿を訪れた法然上人が池の石橋の上に立たれた時、後ろに満月のような光輪が現れたのを月輪殿下はまのあたりにして拝した、というエピソードも語られている。そこからこの町が「月見町」と名付けられたという。
光圓寺の横田典住職から、寺伝や法宝物を紹介いただいた。本堂正面には、「花園殿」と墨書された扁額【写真2】が掲げられている。書いたのは九条尚忠(一七九八~一八七一)である。なお九条兼実の六百回忌が一八五六(安政三)年にあたり、尚忠は同時代の九条家の人物である。また一八四七(弘化四)年に『華園文庫』と題する書物が、五条西洞院の華園御坊(華園殿)から刊行されている。一八四七年八月二十七日から九月五日まで執行された月輪殿下(九条兼実)六百五十回忌引上会に際して刊行されたと言い、親鸞聖人の行実に関する諸資料や「華園御殿霊宝目録」を掲載している。なお親鸞聖人が臨終に際して書いたと伝える「御臨末之御書」の掲載されている初出でもある。華園殿(華園御坊)が光圓寺あるいは大泉寺のいずれにあたるのかは判然としないが、九条兼実の六百五十回忌を契機として、五条西洞院の地を、親鸞聖人と九条兼実の旧跡として復興しようとする動きが進められたとみられる。光圓寺余間には、九条兼実や、その娘で親鸞聖人の妻と伝承される玉日の木像なども安置されている。多くの僧侶や門徒などが訪れ、親鸞聖人の足跡について、実感を持って確かめられてきた歴史が想起される。
【写真2】「花園殿」扁額(光圓寺)
三、親鸞聖人遷化の伝承地
親鸞聖人が遷化したと伝える場所は、前述した五条西洞院に加え、諸説ある。『親鸞伝絵』によれば、遷化した「禅坊」は「押小路南万里小路東」(『真宗聖典』七三六頁)にあった。京都は朱雀大路(現・千本通)を中心に、それより東を左京、西を右京とし、同名の通りが相対している。左京のその場所(中京区柳馬場通御池上る虎石町)には、大谷派の法泉寺(一九二五〈大正十四〉年に、南接する柳池中学校の拡張によって移転)が建てられた。寺伝によると創建は一六二二(元和八)年で、前掲した『二十四輩巡拝図会』巻之一では、「親鸞聖人御入寂の古跡」で、弟・尋有の里坊である善法院があった場所と紹介されている。法泉寺旧地には現在、京都御池中学校・複合施設が設けられている。その柳馬場通(旧・万里小路)沿いには、一八八八(明治二十一)年三月に法泉寺が再建した「見真大師遷化之旧跡」と刻まれた石碑が建つ。
一方、本願寺派では、前述した日野の里に親鸞聖人の誕生地を見出した聞歓が、一八三三(天保四)年に「御往生院」を「開発」したという(前掲児玉識論文)。その地は右京の「押小路南万里小路東」にあたる。近世後期、親鸞聖人の誕生の地と往生の地が、通底する課題として、同一人物によって捜索されたことは興味深い。この「御往生院」が、現在の「本願寺 角坊」(浄土真宗本願寺派、右京区山ノ内御堂殿町)につながる。
左京と右京のいずれが親鸞聖人の遷化した地であるかを考える上で、高弟の顕智(一二二六~一三一〇)が親鸞聖人から聞き書きした「自然法爾章」の奥書を手掛かりとする。一二五八(正嘉二)年十二月に「善法坊僧都御坊、三条トミノコウチノ御坊ニテ」(「古写消息」『真宗史料集成』第一巻、同朋舎、一九七四年、四二六頁)、晩年八十六歳の親鸞聖人と会った際の聞き書きである、と記されている。「善法坊僧都」とは親鸞聖人の弟・尋有のことである。つまり遷化した「押小路南万里小路東」と、最晩年に住んでいた「三条富小路」は同じ場所を指すと考えられる。ただし右京の場合、一区画ずれてしまうが、左京では合致する。また右京の場合、「万里小路」「富小路」は別称であり、通称は別にあった。そのようなことから、親鸞聖人の遷化地は左京の法泉寺旧地と論証されている(草野顕之「親鸞遷化地に関する一考察」『大谷大学史学論究』第十号、二〇〇四年)。
私たちは、親鸞聖人遷化の伝承地のうち、光圓寺に続いて、「本願寺 角坊」を参拝した。
訪問した際、併設されている浄土真宗本願寺派の僧侶養成機関である中央仏教学院の学生お二人に案内いただいた。西本願寺第二十世広如上人(一七九八~一八七一)の時代にあたる一八五七(安政四)年に建立されたことに始まり、親鸞聖人の草庵の号に由来する「角坊」と称された。以前は「角坊別院」であったが、二〇〇八(平成二十)年十一月に本願寺飛地境内地となったという。「還浄殿」(本堂)の正面に広如上人筆の「還浄殿」額が掲げられ、余間には広如上人御影が掛けられている。このように始まりの歴史を大切に伝えておられた。
門前の「親鸞聖人御往生之旧地」と刻まれた石碑は、京都の「還浄講中」の有志者らによって建立されたものである。また本堂前の「角坊」と刻まれた灯籠も、還浄講の有志者によって一九〇七(明治四十)年十月に建立されている。このように当初、「還浄講」という講組織の尽力によって支えられていたことがうかがわれる。
最後に、虎石町の法泉寺旧地を訪ねた。町名にもなっている「虎石」伝承は、江戸時代に刊行された様々な地誌で紹介されている。その内容には若干の異同があるが、前掲した『二十四輩巡拝図会』巻之一の「法泉寺」の項目には、町名のいわれを次のように記している。
親鸞聖人在世の昔、「虎石」という名石が善法院の庭の築山に据えてあり、親鸞聖人は朝夕に愛でていた。そうしたところ親鸞聖人が入滅した時、その石があぶらのような汗を流し、生きているように声を発して泣いて哀しんだ。その後、豊臣秀吉によって伏見城へ移されたが、伏見城が取り払われる時に城跡の山に残された。それを深草にある日蓮宗・宝塔寺(京都市伏見区深草宝塔寺山町)の僧侶が発見して寺に持ち帰った。そうしたところ、その石が「親鸞聖人の御寺へ参りたい」と言った夢を見て、東本願寺へ献上した、という。
現在、親鸞聖人の墓所である東大谷(大谷祖廟、京都市東山区円山町)の御廟内に納め置かれている名石がこれであるという。虎石は一七〇九(宝永六)年に深草山宝塔寺から買得して納められた(細川行信『大谷祖廟史』真宗大谷派宗務所出版部、一九六三年、二二五~二二七頁)。
祖廟が一六七〇(寛文十)年に現在地(東大谷)へ移されて以降、その周辺には真宗の僧侶・門徒の墓が建立されていく。その中には、墓上に虎石のような石を置いたものがある。二〇二二年四月八日に大谷祖廟を訪れた際、御廟内にある虎石に加えて、虎石に類似した石を上に置いた墓を境内で確認した。このような墓は他の地域にも見られ、新潟県阿賀野市にある無爲信寺(真宗大谷派)の歴代住職の墓もその一つである。親鸞聖人の遷化地を象徴する虎石を模した石を墓石に用いる習俗が、各地に散見する。
おわりに
京都市中に、月見町や虎石町といった、親鸞聖人にまつわる伝承に由来する町名が現存している。各町に住居する人々にとって、その伝承が地域のアイデンティティーとなっていたためであり、また他の地域から来訪する人々をも惹きつけたことであろう。
親鸞聖人に関する伝承地には、石碑が建立されている場合も多い。伝承されてきたことを受け止め、後世へさらに伝え残していきたいという人々の篤い思いが感じられる。同時代の史料では確かめることのできない伝承であることをふまえつつ、親鸞聖人を思慕する後世の人々の営為として重視したい。
大谷祖廟に参拝した二〇二二年四月八日は、「花まつり」を開催している期間中(四月一日~八日)であった。大谷祖廟での「花まつり」は、釈尊・親鸞聖人の誕生会として二〇〇一(平成十三)年より毎年、開催している。親鸞聖人の御廟(墓所)において、御誕生を祝う御仏事が催されているのである。
親鸞聖人の祥月命日に御正忌報恩講が営まれてきた歴史は長い。親鸞聖人の誕生と遷化の地が、その生涯をたどる上で同様に重視され、伝承されてきたように、御誕生と立教開宗を同時に慶び讃える法要の意味を、これからも確かめていきたい。
(教学研究所研究員・松金直美)
([教研だより(201)]『真宗』2023年4月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています