十方の如来は 衆生を一子のごとくに 憐念す

法語の出典:浄土和讃.『真宗聖典』489頁

本文著者:林田真貴子(九州教区安照寺)


この言葉は「十方の如来はすべての衆生を、たった一人のわが子のように憐み念じてくださっている」という意味です。

この言葉から、七歳差の妹が生まれた時のことを思い出しました。妹ができたことは嬉しかったけれど、それまで私一人に向けられていた両親の目が手がかかる妹にだけ向き、愛情をとられたような気がして、嫉妬や寂しさで「どうせ妹の方が大切なんでしょう」と、困らせるようなことばかりをしていました。そんな私を「最近、様子がおかしいけどどうしたの」と、ある日、担任の先生が優しく抱きかかえ、大泣きする私の話を聞いてくれました。自分のことを見守ってくれている人がいることを知ると、不思議と、それまで何度も母が私に言ってくれていたけれど聞けなかった、「お母さんは、あなたも妹もそれぞれに愛している。どちらも一人一人大切で、比べられない存在だよ」という言葉が聞こえてきて、安心したことを覚えています。

これには「私だけを見て欲しい、認めて欲しい」という欲求や戸惑い、「私が一番でありたい」というような、誰かと比べることでしか生きられない、私の生き方の根本問題がそこにあったからだと思います。

今、私は自坊での法務の傍ら、実家の保育園で保育士として働かせていただいています。園児の様子を見ていると、弟・妹ができたばかりの子どもは、やはり情緒不安定になることが多く、過去の私と重ねてしまうことがあります。一人ひとりに目を配り、「園児はみんなわが子」という気持ちで接したいと考えてはいますが、やはり積極的に来てくれる子どもは可愛く、手がかかる子どもにばかり目がいきがちで、平等に接することは難しいと痛感しています。それと同時に平等とは何だろうと考え、当時の母の心境を慮る日々です。

親鸞聖人は『教行信証』「信巻」の中で、

如来、一切のために、常に慈父母と作りたまえり。
当に知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。

(『真宗聖典』二六七頁)

阿弥陀如来は慈悲深い父母となり、すべての衆生は皆その如来の子ども(仏子)である、とおっしゃっています。しかし、私たちは自らが仏子と気づかず、その仏の手の中から、逃げよう逃げようと背いてばかりで「親の心子知らず」の万年反抗期の子どものようです。そのような子どもであるにもかかわらず、あなたはあなたのままのいのちであって、他者と比べることも、誰とも代わることのできない、私にとって尊い存在であると呼びかけてくださっています。

もともと、この和讃は「超日月光この身には、念仏三昧おしえしむ」の文から始まります。超日月光とは阿弥陀仏の異名です。「阿弥陀仏はこの私に、名を呼べと念仏の御心を教えてくださいました」という意味です。つまり、慈悲の御心から「あなたは尊いたった一人のわが子です。だからこそ、お母さんと呼ぶように、南無阿弥陀仏と名を呼びなさい(念仏しなさい)」と、見守り寄り添い、願ってくださっているのです。

誰一人漏らさないという、凡夫にはできない如来の平等性によって、背いてばかりの私たちを常に気にかけ、たった一人の大切なわが子として憐み念じてくださっている温かいお言葉のように感じます。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【5月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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