常に出遇いなおしていく道
(教学研究所所員・武田未来雄)

仏教では、人身を受け、仏法に遇うことは希有なことであると語られ、人として生まれたことと仏法に遇うこととが切り離されることなく、見られてきた。
 
私たちは、みな望んでこの世に生まれたわけではない。人と生まれたことの有り難さを実感するなど、到底叶いそうもない。それゆえ、私たちは、生まれた意味や意義を見つけようと、もがき苦しみ、何とかして答えをつかもうとして、一つの価値観にしばられてしまうのではないだろうか。だから、仏法に出遇い、自分の生まれた意義を明らかにしていくことが勧められているのである。
 
そこで、仏法にどう出遇うかが、課題となるであろう。私自身、教えを疑わず、まじめに信じなければならないと思い込み、固定観念でとらえて、本当の意味で仏法に出遇うことができなかった。後に、親鸞における聞思のあり方を学んでいくうちに、そうした自分の思いは誤解であることを教えられた。
 
親鸞は、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(『真宗聖典』三九九頁)と言うように、法然との出遇いによって、本願念仏に帰依した。しかし、これ以降、何の迷いも疑いもなく歩んでいったわけではなかった。晩年に著された和讃には、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『真宗聖典』五〇八頁)と述懐されている。親鸞は、どこまでも虚仮不実から抜け出せないわが身であることを赤裸々に表白したのである
 
それとともに、最晩年の八十八歳の手紙には、法然が門弟に語るエピソードを記して、「いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり」(『真宗聖典』六〇三頁)と述べている。何かことがある毎に師の教えを憶念し、その教えにたずねなおしていたことがうかがわれる。親鸞は生涯をかけて、師の教えを聞き続けた。それは古くならない、常に新たに出遇いなおし続けた歩みであったのである。
 
私は、そのような親鸞の姿勢から、過去の体験を握りしめ、迷ったり、疑ったりしている自分であることに気づかされ、あらためて教えに照らし出されることの大切さを学んだ。本願に出遇いなおしていく聞思の道を教えていただいた。
 
その聞思の道は、出遇った感動にとどまらず、様々な苦悩や疑惑を縁として、なぜ本願が発されたのか、その理由・根拠をたずねていくことを重視している。本願が発された理由・根拠に、生まれた意義がわからず、世の固定観念にしばられて意義づけしようとするような疑いの身の救いも、見出される。
 
固定観念にしばられている私に、本願は、できる・できないなど関係なく、無条件の救いを呼びかけてくる。本願を聞思することを通して、常にわが身が照らされ、新たに出遇いなおしをする道をたまわるのである。
 
仏法に出遇ったつもりになっていた私は、出遇って完了するのではなく、人の身の受け難さ、仏法の出遇い難さと言われる、この「難さ」が重要であることを教えられた。

 

(『真宗』2023年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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