関東御旧跡フィールドワーク報告(一)
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)

慶讃法要を控えた本年二月末、関東旧跡寺院の法宝物と北陸真宗移民の調査を目的として、茨城県のフィールドワークを行い、那珂市阿彌陀寺(東京教区茨城二組)と水戸市善重寺(同)を訪問した(二月二十八日~三月一日)。今回は阿彌陀寺について報告し、善重寺については次回報告する。
 
阿彌陀寺(大山定信住職)は二十四輩第十四の定信を開基とし、大山草庵としても知られている。寺宝として「三尊六高僧絵像」など初期真宗カラーの強い法宝物を所蔵することで知られているが、今回新たに「阿彌陀寺法宝物絵解き由緒書」(仮称)を拝見した。江戸末期の作とされ、「宗祖真向御影」や「宗祖御頭骨」など現在も所蔵が確認できる法宝物が描かれ、阿彌陀寺や法宝物の由緒を記す。所蔵する法宝物一覧図でもあることから、絵解きが行われていたことが想像できる。
 
注目されるのは、「絵解き由緒書」の二段目に描かれた尼僧像についてである。絵像のとなりに「尼恵信」の遺言状が記されていることから、この尼僧像は親鸞の妻・恵信尼の絵像と考えられ、かつて阿彌陀寺に恵信尼絵像が所蔵されていたことがうかがえる。
 
この尼頭巾をかぶり、数珠をもち、左を向いた姿からは、龍谷大学図書館蔵「恵信尼像」と善重寺蔵「恵信尼像」を思い起こす。特に善重寺「恵信尼像」は一九八一年の発見時より、龍大蔵「恵信尼像」と同じ構図であることが指摘されている(『同朋学園仏教文化研究所紀要』第七・八合併号三一二頁、三五六頁、一九八六年)。制作年時は共に桃山~江戸初期とされ、どちらも画面右上に「恵信禅尼」と墨書銘があることから、恵信尼絵像と認められている。この龍大蔵については、元は阿彌陀寺蔵であったことが最近指摘された(京都国立博物館「親鸞展」図録二八二頁、二〇二三年)。
 
戦前の旧跡寺院絵葉書に、龍大蔵に似た尼僧像と「玉日公御影」「十五番(ママ)) 常陸額田阿彌陀寺蔵」の印字があり、「恵信禅尼」の文字は見えないが、修復痕などから判明したという。「玉日」は宗祖の伝説上の妻だが、玉日が出家し恵信尼と号したとする伝承(『親鸞聖人行実』三九二頁)があり、矛盾しない。また、一九三四年の阿彌陀寺参拝記には「玉日君御臨末の御影」(『関東聖蹟巡拝記』一三六頁、一九三四年)とある。
 
今回の調査では、法宝物も人間同様に移動することをあらためて知った。管見の限り『二十四輩順拝図会』(一八〇三年・一八〇九年)など江戸後期の参拝記には、阿彌陀寺も善重寺も所蔵品に恵信尼絵像は確認できない。すると両寺院に恵信尼絵像はいつ、どのようにして伝来したのか。宗祖ゆかりの茨城県には、まださまざまな謎がある。慶讃法要への動きのなかで、浄土真宗のダイナミックな歴史の一端を知った。

「絵解き由緒書」(部分)

 

*「親鸞聖人生誕八五〇年特別展「親鸞─生涯と名宝─」」(真宗教団連合特別協力、京都国立博物館で五月二十一日まで開催)には、茨城県の大谷派寺院より、光明寺(茨城一組)「親鸞上人門弟等交名」、專照寺(同二組)「有髪御影」、善重寺より「恵信尼像」と重要文化財「聖徳太子立像(孝養像)」が出品されている。

(教学研究所研究員・御手洗隆明)

([教研だより(202)]『真宗』2023年5月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています