また、この頃から柳の助言により、板画に和紙の裏から色付けする裏彩色という彩色技法が施されるようになりました。棟方の心の変化とこの技法を取り入れたことにより作風に大きな変化をもたらしました。
その変化について棟方は、次のように述べています。
いままではただの、自力で来た世界をかけずりまわっていたのでしたが、その足が自然に他力の世界に向けられ、富山という真宗王国なればこそ、このような仏意の大きさに包まれていたのでした。真宗妙好の宗根、在家仏人として身をもって阿弥陀仏に南無する道こそ、板画にも、すべてにも通ずる道だったのだ、ということを知らされ始めました。誰も彼も、知らずの内、ただそのままで阿弥陀さまになって暮らしているのです。その生活こそ、いままで思いも及ばなかったお助けそのものの生活ではないでしょうか。(中略)富山では、大きないただきものを致しました。それは「南無阿弥陀仏」でありました。衣食住でも、でしたが、それよりもさらに大きないただきものであったのです。
(棟方志功『板極道』)
棟方一家は、終戦後も1951(昭和26)年までの6年半余りを福光で過ごしました。その中で暁烏敏・吉田龍象など真宗の人々と知り合うことにより、棟方は、1958(昭和33)年に親鸞聖人七百回御遠忌法要の記念事業として、東本願寺の渉成園の園林堂仏間の襖に「天に伸ぶ杉木」を描くこととなりました。