道宗は若いころには、弥七(または弥七郎)と名のっていました。20代で仏法に心をかけるようになり、京都山科にあった本願寺に参詣した際に蓮如上人のお話を聞き、心を打たれました。
その後、年に2、3度は上洛して蓮如上人のもとへまいり、聴聞して聞いたことの喜びを地元の人々のすみずみに語りました。
さらに越中で蓮如上人が説く真宗の教えを届けたいという思いと、妻からは「どうか今度お帰りの時には、私のために蓮如さまからありがたいお言葉をいただいてきてください」と頼まれたことから、道宗は、直接蓮如上人へ真宗の教えをしたためていただきたいと願い申し出て、御文(手紙)を越中に持ち帰りました。
あかおの道宗、もうされそうろう。「一日のたしなみには、あさつとめにかかさじと、たしなめ。一月のたしなみには、ちかきところ、御開山様の御座候うところへまいるべしと、たしなむべし。一年のたしなみには、御本寺へまいるべしと、たしなむべし」と云々
(『蓮如上人御一代記聞書』)
赤尾の道宗が、次のように述べたと伝えられています。「毎日、お朝事の勤行を欠かさないように心がけましょう。毎月、近くの「御開山様」(親鸞聖人御影)が安置されている場所へ参拝するように心がけましょう。毎年、御本山へ参拝するように心がけましょう」 道宗は、月に一度は親鸞聖人御影が安置される井波の瑞泉寺に参ることを決め、雪の日であったとしても通い続けていたといわれています。
道宗が歩いた五箇山から井波までの1000m級の稜線を越える約37キロの道は、誰言うとなく「道宗道」と呼ばれるようになり、今日まで伝えられています。