また、「趣旨」には、このように書かれています。
吾々の国で培われ、育ち、熟した幾つかの思想のうち、おそらく最も深く温かいものは、この南無阿弥陀仏の六字につつまれる宗教思想であろう。歴史を省みると、無数の霊が、この六字によって救われ、今も救われつつあるのである。なぜそんなにも、この六字に秘力があるのか。何をそれが意味してるのか。当然、道を求める凡ての人々に、その真意が報らされてよい。
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』)
「南無阿弥陀仏」という六字名号は、浄土系仏教の思想や信仰の中で最も重要なものとして人々の生活の基盤となっています。「南無阿弥陀仏」の「南無」は、経典の原語であるサンスクリットの音を漢字で写したもので、「帰命」を意味します。「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰依する」という意味です。
その名号を探る手がかりとして、柳は法然上人・親鸞聖人・一遍上人の教えを研究していきます。
私は法然、親鸞、一遍を、三つの異る位置において見ようとするのではなく、この三者をむしろ一者の内面的発展のそれぞれの過程において見たいのである。三人ではあるが、一人格の表現として考えたいのである。この発展が如何に必然なものであり、有機的なものであるかを述べたいのである。
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』)
私にとっては、念仏の一道を眺める時、二つの場面に心を惹かれざるを得ぬ。一つは浄土門それ自身が持つ特色ある性質である。自力門には見出し難い他力門固有の光景である。これあればこそ、念仏の一門に存在の意義があろう。特に一般の民衆にとって、この一道があることは絶大な恩寵であって、この一道が用意されていないなら、どんな済度が衆生に可能となろう。多くの人々は自力の難行に堪え得る者ではないからである。
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』)