東北教区來生寺 園村 義誠
今年も秋彼岸の時節となりました。毎年テレビでも、お墓参りをしている家族の様子が伝えられるなど、私たちにとっても馴染みのある仏教行事といえます。
先日、近所のご門徒さんのお宅に中陰のお参りに伺おうと歩いて向かっていた時のことです。道中でこんな言葉をかけられました。「ご苦労様です。どちらまで?」と。私は「はい、ちょっとそこまでお参りに」と応えました。何気ない挨拶代わりの会話なのですが、あらためて考えてみると、実に不可解なやりとりだと感じました。相手からは向かう場所を尋ねられているのに、はっきりとその場所を言う事なく「ちょっと、そこまで」と応え、そして尋ねた方もそれ以上に問い返すことなくお互いにその場をやり過ごしたのです。
さて、このことを自らの人生にあてはめてみたらどうでしょうか。仮に「あなたは、どこに向かって生きていますか」という問いかけに対して「ちょっと、そこまで」という応えでは、実に曖昧というか不誠実だと言わねばなりません。
私たちが仏法聴聞の場で唱和している三帰依文の冒頭は、「人身受け難し」という言葉から始まります。人としてこの世に生まれ難いいのちをいただき、やり直しのきかない一度きりの人生を今この時も生きているという、この身の事実について書かれています。しかし、そのことになんの驚きや感嘆もなく、ただ声に出して読んでいるだけの自分がいます。そのいのちが何処から来て、どこに往こうとしているいのちなのかを問うこともなく生きているのです。
このような私の姿というものを、言いあててくださっている一休禅師の歌があります。
世の中は食うて稼いで寝て起きて
さてその後は死ぬるばかりぞ
いかにも一休禅師らしい、厳しい中にも味わいのある深い言葉です。自分なりに一所懸命に築きあげてきた人生だという過信や自負も、所詮は「死ぬるばかりぞ」という事実によって、もろくも崩れ去ってしまう。あなたはそれでいいのですか、という問いかけの言葉だと私は受け取りました。
人生はよく旅に譬えられますが、その人生そのものが「食うて稼いで寝て起きて」ということに始終して、その行きつく先が「死ぬるばかりぞ」としている私たちに、先の三帰依文の「人身受け難し」の言葉は、そうした考え方、生死観に埋没している私たちにとって、とても大切な問いかけの言葉であるように思います。
そんな私たちに対して、七高僧のお一人である天親菩薩は、『浄土論』というお聖教の中で、「空過」という言葉をもってお示しくださいました。そしてそのおこころを宗祖親鸞聖人はご和讃の中で、
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
『高僧和讃』(『真宗聖典』490頁)
と詠まれています。
自分がこれまで歩んできた人生を空しく過ぐるという確かめは、そう思えるような絶対的な拠り所を得た(本願)からこその言葉であると言えます。このことを思う時、自分がこの身のいのちの事実と向き合うことなく、ごまかしごまかし生きてきたように思えてなりません。そのことを煩悩にまみれた濁り水だと言いあててくださっているのです。
お彼岸の時節であればこそ、”生きているうちが華、死んだらお終い”という刹那的な生き方に無自覚に止まっている私たちに対し、阿弥陀仏のお浄土の世界に出遇ってほしい、そして、お浄土こそ私が安心して還る居場所であったということに気づいてほしいという、亡き人からの願いに耳を傾ける時として、彼岸という仏事を迎えたいものです。
最後に作家・高見順さんの『死の淵より』という作品の一節をご紹介します。
帰れるから旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
わが家にいつかは戻れるからである
東本願寺出版発行『お彼岸』(2020年秋版)より
『お彼岸』は、毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『お彼岸』(2020年秋版)所収の随想の一つをそのまま記載しています。