已に以て末法に入りて六百八十三歳なり
(『真宗聖典 第二版』 四二三頁)
(教学研究所研究員・藤原智)
昨年(二〇二三年)、宗祖親鸞聖人の御誕生とともに立教開宗八百年の慶讃法要が勤められた。立教開宗は、親鸞聖人が『教行信証』を著されたことに基づき、八百年という数え方については本文中に次の通り記される「元仁元年」(一二二四年)を基点とする。
ここにあるのは「末法史観」、すなわち釈尊の般涅槃(入滅)から時を隔てることにより、仏道の実践が成り立つ正法・像法という時代から、それが成り立たなくなる末法という時代に入るという考え方である。我々はすでに末法という時代に生きざるを得ない。その痛ましい事実を直視するところから、「斉しく悲引したまう」(『真宗聖典 第二版』四一九頁)という真宗の確かめは始まっている。
我々一人ひとりが、こうして生きてあること。それは言うまでもなく、決して周りと隔絶した、単なる一個人を生きているのではない。私には私に先立つ歴史があり、それを背景とした時代・環境の中にあって、さまざまな相互影響のもと、日々の営みを行っている。そこで私が抱える悩み、それはいかにもちっぽけに思える悩みであろうとも、決して個人的な悩みではなく、時代を代表する表現であり、それへの真の解決を求めることは、時代を代表する願いである。
この自らが生きる時代への直視は和讃においても、次のように表現された。
二千余年になりたまう
正像の二時はおわりにき
如来の遺弟悲泣せよ
(『真宗聖典 第二版』 六〇九頁)
釈尊の入滅から遥かな時が経ち、仏道修行が成り立つ時代は終わっている。その事実を「如来の遺弟悲泣せよ」と親鸞聖人は記された。この言葉を、我々は今どのように受け止めるのだろうか。
我々は抱える苦悩を解決するのに努力や心がけで対処しようとする。そして我々はこれまでも努力してきたし、現にしている。しかし、それはとても間に合っていない。
さらに言えば、努力や善意が大事だと思いながら、その積み重ねを素直に信じることができない。真面目であるけれども、その裏に欺瞞を、もしくは個人的に狭く矮小化されていることを感じてしまう。または、本来それは、どこかで聞いた英雄譚の如く、私とは隔絶した特別な人の歩む道のようである。
だからといって、自分が感じる苦悩を手放したり、他人に任せてしまうわけにもいかない。自分が納得するまで、どこまでも求めずにはおれない。そうした時、やはり努力や善意を励ますほか我々は道を知らないのである。
親鸞聖人は「悲泣せよ」と言う。悲泣に徹底するところにのみ「悲引したまう」道があるのである。はたして我々に、「悲泣せよ」という声が聞こえているだろうか。
(『真宗』2024年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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