思い込みという自力
(新野 和暢 教学研究所嘱託研究員)
〈新年は、めでたいものである〉。それは思い込みであることを私に知らしめた出来事から、半年が過ぎようとしています。真宗の教えが盛んな能登半島を中心に甚大な被害をもたらした大地震を通じて、私は次の言葉を思い起こしました。
これは、明応二(一四九三)年正月一日、京都の勧修寺村の道徳が蓮如上人にお会いした際の一節です。元日という背景を考慮すると、道徳は新年のご挨拶に伺ったのでしょう。それに対して蓮如上人は祝賀の言葉を返すのではなく、年齢を確かめ、さらに念仏申すことを勧めたのです。民俗学によると元日は「年神様」をお迎えし、一つ年齢を重ねる日です。年中行事として、互いに喜びを表現し合う日とも言えます。それゆえ、このエピソードを知った時、俗世間の感覚とは違った見方で、一見すると冷たい表現に感じたこともありました。
さて、本年元日の揺れは震源から二五〇㎞以上離れた東海地域に住む私にまで伝わり、恐怖を感じました。すぐにテレビをつけると、余震に加えて津波や火災といった厳しい状況が目に飛び込んできました。不安と恐怖にある被災者のご無事を願い、少しでも支援をしたいという気持ちを持ちました。その一方で、身の回りの安全を確認すればするほど、他人事として捉えるようになっていったのも事実です。
年末年始休暇中の為、勤務する宗門校が行う支援活動も新学期を待つほかありませんでした。今年初めて顔を合わせる生徒達に私は、「新年おめでとう」と挨拶してから、世間話の一つのように支援活動も提案するつもりでした。そんな一日を迎えようとする朝、保護者から金沢市内で避難しているという連絡を受けて、考えが一転しました。その電話で、帰省先の祖父母の家屋が倒壊し、そこから裸足のまま逃げだし、飲み物すらない避難所で過ごしたことや、目の前で柱の下敷きになりお亡くなりになったご家族のことなどを聞きました。
そして、お悔やみに伺った避難先で、ご遺族とともに称えたお念仏を通じて、儀礼的挨拶は当たり障りのない言葉ではなく、時と場によって相手を傷つけることに、ようやく気がつきました。それゆえ私は、お悔やみの言葉を見つけられませんでした。
実は、あの時どうすれば良かったのか今も分かりません。悲しみへの寄り添い方が見えないのです。だからこそ、もう少し深く考え続けたいことがあります。それは、蓮如上人が道徳に語った続きのくだりです。ここには自力と他力の念仏が示されています。
何度も何度も、お悔やみや念仏申すことで共感や支援の気持ちを伝えようとした、私を言い当てている教えのように感じます。思い込みの沼の中でもがいている私だからこそ、ものの多少を求めず、一心に念仏申せと勧めてくださっているのだと思います。
(『ともしび』2024年8月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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