夕陽のような言葉
(谷口 愛沙 教学研究所助手)
ある女性が、自分自身の日々を書き留めたノートがある。「小山さん」と呼ばれたその人は、都内公園のテントで暮らす野宿生活者であった。小山さんの死後、彼女のテントに遺された大量の書き物は、棺に納められるはずだった。けれども、小山さんの言葉をどうしても遺したいと集まった人たちによって、書き起こしと整理がなされ、二〇二三年に『小山さんノート』(小山さんノートワークショップ編、エトセトラブックス)として刊行される。
「ただこの時間がほしかった」と書く小山さんにとって、「この時間」とは、音楽の流れる「喫茶」に来て、本を読み、ものを書いて一人で過ごすことである。本書を読む限り、小山さんの生活は容易ではなかった。同居人から日常的に繰り返される暴力と暴言を受けるとき、彼女は自身を傷つけるものから避難するように「喫茶」での一人の時間を求めた。そこで体を温め、自分自身を持ち直し、そしてまた同居人との野宿生活へ帰っていく。
私は、小山さんの「この時間」には、どういう意味があるのだろうと考える。「時間の許される限り、私は私自身でありたい」とノートに綴るのは、小山さんが「私自身」であることを確かめずにはおられなかったからではないか。暴力と暴言は人を壊す。そのとき、身を守るために、人は自分自身を閉ざすだろう。直面する現実は変わらないままに、人間の外にある自然へ向けた「夕陽が美しい」という小山さんの言葉は、だからこそ、ひときわ異彩を放つ。なぜなら、この言葉は、「夕陽」に目を向けることが難しいと思われる状況で発せられたものだからである。否、この言葉は、発せられたと言うよりはむしろ、「人の自由」、「本来あるべき魂」から溢れ出たものであると私は考えたい。「夕陽が美しい」と吐露する小山さんのまなざしは、彼女がそうありたいと願う「のびのびと」「解放」された「私自身」でありえたことを表しているように私には思えるのである。
私は、傷つき痛みを感じる者の懸命に生きる姿を、そこで平然と行われる暴力を無視し、評価したいのではない。そうではなく、いかなる状況にあっても人はなぜ生きることができるのか、ということに迫りたい。この問いに対して、私が今考えているのは、その人には何ものにも奪われず、壊されないものがあったからということである。私には、小山さんの言葉が、静かに輝く夕陽のように映る。では、この輝きは、どこからもたらされるのであろうか。
(『ともしび』2024年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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