東京教区專福寺 二階堂 行壽


今年、母の十三回忌であった。十二年前、その母の命終前に、これもまた今は亡き父が母と交わした会話が臨終記として残っている。お互い死を予感しつつ、「この頃何を考えているの」という父の問いかけに、「ねてもさめてもへだてなく/南無阿弥陀仏を称うべし。それだけ」との返事であった、と。

その母の葬儀以来、こんなことを考えるようになった。

人生を終えるに当たっての最後の一言は何だろうか。何を言って人生を終えようと思うのか。また何と言って亡き方は最後を迎えられたのだろうか、と。

証明など当然できようもないわけだが、きっと「南無阿弥陀仏」の言葉をもって命を終えていかれたに違いない、と。

その人生で出会ってきたいろいろな出来事。楽しいこと嬉しいことに会いつつも、その反対に辛い悲しい苦しい出来事に会わざるをえない。人間の日常の眼でいえば、辛い悲しいことには会わずに、嬉しい楽しいことだけに包まれていればと誰もが思うが、現実には自分の思いとは裏腹なことを抱えざるをえない。

命終えるにあたって、人生で出会った楽しい出来事やそのことを共に作ってくださった人たちに、〝本当にいい人生でした、ありがとう〟と言って命を終えるのではないか。しかし一方で、出会った辛い出来事に対しても、生きている時にはなかなかその不都合なことが認められなかったけれども、そのことを通して、いろいろと思い考えさせられて、そしていまのこの自分になってきた。その辛い出来事に対しても、〝いろいろと勉強させてもらいました、お世話になりました〟と。

つまり自分の人生で出会った出来事に一点の欠片もなく、都合の良い悪いを超えてすべて丸ごと、これがこの私の人生そのものですと受け止めて命を終えていかれたに違いない。そのことを言葉で表現したのが、「南無阿弥陀仏」ではないのだろうか、と。

ナムアミダブツ、それは阿弥陀の本願からの私への呼びかけ。アミダにナムせよ、と。

ア・ミタ、無・量。都合の良し悪しで量ることを超えた世界。

生きてある時は、自分の都合で人生を考えてしまうことを免れないが、しかし、どれだけ自分の都合で自分の人生を考え、不都合なことを否定し、頭では切り離して考えようとも、人生に起こった出来事は、起こったこととして変えようもない。遺る側に立っているこの私も、また同じである。

「南無阿弥陀仏」との一言をもって命を終えていくその裏には、きっと深い涙があるに違いないが、その涙は、また光をもった涙なのではないだろうか。遺る私たちへの「南無阿弥陀仏」という光の言葉を伴った涙として。


東本願寺出版発行『お彼岸』(2020年秋版)より

『お彼岸』は、毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『お彼岸』(2020年秋版)所収の随想の一つをそのまま記載しています。