真・仮を知らざるに由りて、如来広大の恩徳を迷失すく
                    (『真宗聖典 第二版』三七七頁)
(教学研究所所員・武田未来雄)

『教行信証』「真仏土巻」全体の結びである結釈で、仏土に真と仮があると述べられている。浄土に真と仮があるのは、阿弥陀仏の本願に真と仮があるからと言われる。
 
真土とは、一切の衆生を平等に救おうとする阿弥陀仏の誓願に報いあらわれた浄土である。阿弥陀仏は、どのような人であっても、どれだけ時を経ようとも、必ず摂め取って救おうとする光明無量と寿命無量の誓願をおこし、この大悲の誓願にこたえる真仏土を成就している。仮土は、どうしても自力を棄てることの出来ない凡夫を導くために、自力の行によって往生する浄土として設けられた、仮の世界である。それは、諸善万行を修して、あるいは自力で念仏を修して願う、方便化身土として表される浄土である。
 
そのようにして自力で願う仮土を浄土であると思い、本願によって誰もが平等に救われる真土が明らかにならないことを、「如来広大の恩徳を迷失している」と言われた。しかし、真土が明らかになれば、もう仮土は不要になると思うことも、また「恩徳の迷失」になるのではないだろうか。真土と仮土とは一方を棄て一方を取るというのではなく、真と仮とが相俟ってはたらく関係として聞思していくことが、大切であるように思われる。
 
そもそも仮土というのは、諸善を修するにしろ、自力で念仏するにしろ、共に過去から現在に修めてきた行によって、未来の結果として求める浄土である。この方便化身土の教えを前にしたとき、自分は、本願念仏に帰依しているとは言いながら、本当に自力から抜けだしているのかが問われてくる。
 
日常の自分は、今ここではなく、いつか、どこかの前方へ、競わせ走らされ、追い立てられている。常にこうあるべきだと言って、自己の思いに執着し、現在に満足することなく、未来を求めて生きているのである。こうした自分のすがたを省みるとき、仮土を求めるあり方と重なり、到底本願念仏にまかせきって、他と共なる世界に安住して生きているとは言えないのである。
 
まさしく方便の悲願は、そのような凡夫の自力根性の根深さを知りつくしたところに建てられている。如来広大の恩徳を知るというのは、一切の衆生を平等に救う真仏土のことが明らかになると同時に、自力にとらわれた不安や疑いの中で生きるあり方を教え知らせ、他と共なる生き方に導こうとする方便のはたらきが明らかになることなのである。
 
親鸞聖人は「化身土巻」を著して、方便の意義を明らかにされた。そして自らも、弥陀の本願による手だて、諸師の教えによる導きがあって真実報土の往生を遂げるとの謝念を表白されている(『真宗聖典 第二版』四一八頁)。それは、伝統されてきた教え、善知識や、同朋の導きと出遇える、豊かで深い現在の時が開かれることを示すものであろう。迷いの自己にとって真・仮による導きとは、いつも追い立てられ未来に向いている自我の思いを、教えに遇う豊かな現在に向かわせ、そこにこそ真実の未来が開かれることを説くものである。


(『真宗』2024年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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