阿弥陀さまの招喚(お招き)

著者:大江憲成(日豊教区觀定寺住職・九州大谷短期大学名誉学長)


「二河白道」(真宗聖典二四八頁・初版二二〇頁) 


また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に墮せんことを畏れざれ」と。


〈また西の岸の上に人がいて、旅人に喚びかける。「旅人よ、心を一つに定め、まっすぐにこの道を歩んで来なさい。私はすべてをあげてあなたを護ろう。水と火の河に堕ちることなど、少しも畏れることはない」と。〉


どうも何か忘れ物をしているようで、それを探しながらここまで来てしまいました。いろんな所を探してもみました。未来にあるのではないかと夢見てもみました。しかし、どこにも見つかりません。事実、忘れ物が何なのか、自分が一体何を探しているのか、わからないのです。ところが、私たちの歴史には、その探し物のありか、生きるべき道のありかを教えてくださってきた方々がおられるのです。お釈迦さまをはじめ、親鸞聖人方であり、諸仏と申します。


道に迷っていても迷っていること自体に気づきもせずに、どこまでも自分の認識だけをあてにして、さらに先に進もうとする私たち。あげく、いよいよ忘れ物が見つかりません。ところがその私たちに、「どうかお念仏に出遇って生きてください」という諸仏の勧め、教えがあったのです。


では、お念仏とは何なのでしょう。それは、永遠の昔からこの私を根っこから支え尽くしてくださっているはたらきであります。旅人は諸仏のその教えにうながされ、お念仏に気づきます。お念仏は、はからずも向こう側から旅人に呼びかけてくださっていたお声であったのです。これが「西の岸の上に人ありて喚うて言わく」であります。西の岸の上の人とはお浄土にまします阿弥陀さまであり、東岸、つまり迷路に迷い込んだ私たちに向かって、彼方よりずっと呼びかけてくださっていたのです。


「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に墮せんことを畏れざれ」。これを「弥陀の招喚」と申します。


袋小路の私たちを「直ちに来れ」と大悲の心でお招きくださっている喚びかけです。そこで、旅人は「汝よ」と呼びかけられている自分に気づきます。それは最も愛しいものに対する声、母親が溺れる幼子に呼びかけるように、出口なき旅人の現実に寄り添い、どうか道のありかに気づいてくださいと呼びかけてくださっている大悲のお心、本願であったのです。


旅人は、凍てつく荒野の中で真実の温もりを感じます。


同時に、旅人は「汝よ」と呼びかける阿弥陀さまのお声を聞き、その声に呼び覚まされて生きる「我」に出遇います。思いを我としていた自分が阿弥陀さまに呼びかけられ、願われている自分であることに気づくのです。これを、聖人は「一心の言は、真実の信心」「正念の言は、選択摂取の本願」であると押さえておられます(真宗聖典五三八頁・初版四五五頁)。思いを我とせず、阿弥陀さまが選び取られた本願の念仏(正念)に生きていく身になること(一心)。実はこれが永らく探しあぐねていた忘れ物であったのです。


さらに聖人は「「汝」の言は行者なり、これすなわち必定の菩薩と名づく」と力強くうなずかれ、阿弥陀さまのお浄土に召され、お念仏の道に生きるその者こそが「真の仏弟子なり」といただかれています(真宗聖典同前)。


そこに「すべて水火の難に墮せんことを畏れ」ず、たとえいかなる災難の中にあれ、人生を丁寧に、どこまでも一筋の白道を歩む新しい人の誕生があるのです。


『お念仏の道―親鸞聖人からのメッセージ』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2020年版⑦)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2020年版)をそのまま記載しています。

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