自然は無関心
(宮下 晴輝 教学研究所長)
昨年(二〇二三年)の親鸞聖人讃仰講演会で、伊藤亜紗さんから「ままならない体を生きる」という題で講演をいただきました(本号掲載)。講演の冒頭で、ヴァージニア・ウルフの『病気になるということ』(一九二六年)というエッセイが紹介され、その中の「自然が慰めになるのは、自然が無関心だからだ」という一節をとりあげられています。私たちの体というのは自然そのものであり、まさにままならないものであり、元気でいたくても病気になってしまうこともあれば、長く生きたいと思っても最後には死がやってくる、必ずしも思いどおりにならないものを、私たちは自分の中に抱え込んでいる、それが体なのではないかと。その体としてある自然が「自然が自分に無関心だからこそ慰めになるのだ」と、とても不思議なことをウルフが言っているとお話をはじめられました。そして、障害のある体をもって生きておられる一人のかたの例をあげて、そこから知らされる具体的な喜びや悲しみ、それがそのまま人生の豊かさとも言えるというお話をしてくださいました。
だいぶ前に読んだ水村美苗著『續明暗』(筑摩書房、一九九〇年)の最後は、逃げ出すように山中をさまよい歩く津田の妻お延が、ふいに「自然の全くの無関心」に打たれた感じをいだき、生きていくことの方をえらぼうとする場面で終わっていました。
もう一つ印象的だったのは、十年あまり前に読んだ、二〇一一年三月十一日の震災をめぐってのエッセイ、池澤夏樹著『春を恨んだりはしない―震災をめぐって考えたこと』(中央公論新社、二〇一一年九月)でした。そこで「自然は人間に対して無関心だ、ということが自然論のセントラル・ドグマだ」と語っています。「津波があと一メートル下で止まってくれていたら、あと二十秒遅かったら、と願った人が東北には何万人もいる。何万人もの思いは自然に対しては何の効果も影響力もなく、津波は来た。それが自然の無関心ということだ」と。これを逆に、津波があと一メートル上に来ていたら、あと二十秒早かったら、自分の身体もまたそこに巻き込まれただろうと思った人が何万人もいたということなのでしょう。そこに巻き込まれなかったとして、どれほどの英知があってのことと言えるでしょうか。やはり波立つ潮流という自然の中に引きずり込まれ壊れてしまう身体をもって生きているということは、一ミリも変わらない。身体もまた「感情の絶対零度」の無関心な自然の一部だということの証拠なのでしょう。
自然が猛威をふるって悲しませてやろうとするのではないのですが、仏教の古い経典には「花を摘むのに夢中になっている人を、死王はさらっていく。眠っている村を洪水がさらっていくように」(『ダンマパダ』四七)とあります。〝自然〟である「死王」について考えてみようと思います。
このたび、伊藤さんの講演から、「自然は無関心」という言葉がすでにヴァージニア・ウルフにあること、そしてそこでどんな脈絡をもって語られているのかを知り得て、とても満たされた思いです。
(『ともしび』2024年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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