伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀有り
(『真宗聖典 第二版』 一八六頁
(教学研究所研究員・三池大地)
経典や論疏には、様々な喩えが説かれている。右に掲げた言葉も、その一つである。
この文は、親鸞聖人が高僧として仰ぐ道綽禅師の言葉。七世紀の中国において、今の時代は末法であると受けとめ、人間のあり方を深く洞察した方だ。そして道綽禅師の教相判釈(聖道・往生浄土)は、法然上人や親鸞聖人にも影響を与えた。紹介するのは、「行巻」に引用された『安楽集』の喩えである。
「行巻」では「諸仏称名の願」を軸に、諸仏が衆生に功徳を施す名号を讃嘆することが示されている。その中で親鸞聖人は、『安楽集』に描かれている喩えを引用する。それは、以下のようなものである。
釈尊が国王である父(浄飯王)に対し、凡夫のできる実践行として念仏三昧を勧める。その勧めに対して父王が念仏の功徳とそのかたちを訊ねると、釈尊は次のように応答された。
伊蘭林が四十由旬(約四五〇キロ)四方に生えている。この樹は悪臭がひどく、食べれば「狂を発して死せん」と言われるほど猛毒である。これを道綽禅師は、衆生の三毒(貪瞋痴)や、次の世で地獄に生まれる業を具え、煩悩が絶えず現れて、覚る機会がない環境(三障)、無辺の重罪を意味すると説明する。
その林の中に一本の栴檀(衆生の念仏の心の意)がある。美しい香りを放つ香木で、根や芽はあってもまだ土の中に埋まっている。後の時に、栴檀の芽が生長して樹に成ろうと土から少し顔をのぞかせる。すると、栴檀が四方に生える伊蘭林の悪臭を美しい香りに改変させた。衆生がそれを見たら、希有の心を生じるようなものである、と。
この喩えでは、誰もが念仏の功徳を積んで相続すれば、衆生の念仏の心が三毒といった煩悩を善に転じるように、仏道を成就することができると伝えている。
親鸞聖人は、末法の世に生きる人間を洞察し、打ちひしがれて苦しみもだえる悲痛な叫びを聞かれた。それはまた、人間の内に、衆生を哀れみ救おうと念じる阿弥陀仏の御心を見たのであろう。
そのような私たちに仏は、一生の間、悪を造り続けてしまう罪業を抱えていると教えている。だが私たちは、伊蘭の悪臭に気づくことなく、自他を傷つけ合いながら過ごしている。そして、猛毒である悪臭を吸い続け、いつしか地面に倒れ横たわってしまう。その時、諸仏の称名によって栴檀の香りを聞(か)ぎ、その存在を知らされるのである。
地面に倒れた私たちは、自らの力で何とかして立ちあがろうと考えてしまう。しかし、倒れた先にある土に身をゆだね、その冷たさと温かさを肌身に感じさせる大地こそが、私を包み受けとめてくれる場所ではないだろうか。その場所において、私たちは自身の中にある栴檀を聞香するために、諸仏が称える名号を聞き続けていかなければならない。
諸仏が念仏を讃嘆するところには、罪業を生み出し続けることへの深い悲しみがある。その衆生の現実にありながら、阿弥陀の名を聞いてきた法脈に身をゆだね相続していくことが念仏三昧であろう。
(『真宗』2024年12月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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