追善の仏事と報恩の仏事
著者:竹中智秀
本願に遇ったとか念仏に遇ったとかというのは、どう生きていいかわからない空しい思いをしている者が、自分の全存在をあげて完全燃焼する。金子大榮先生がいつも言われる完全燃焼です。完全燃焼していける、そういう一生をいただくのだということです。それが本願に遇ったことだと、それを喜んでゆく、そういう仏事を報恩の仏事というのです。
報恩講を勤めるというのは報恩の仏事なのです。江戸時代の「卒塔婆を建てて亡くなった者をたすけてやろう」という追善の仏事が圧倒的な中で、「私は如来さまから仕事をいただけた」と、こういう喜び、そういう仏事を門徒は勤めてきたのです。門徒は普段からお内仏を中心にして、ご本尊との関係の中で「正信偈」「和讃」に親しみ、如来・聖人の教えを聞き、一味の安心というかたちで、家族がお互いに御同朋と言いながら、最後の最後まで苦労を共にしたのです。それをまっとうできるのは、お内仏で教えを聞いたからなのです。そういうことがなかったら家族はばらばらです。
現代は親が寝る時に枕元にバットを置いているというのです。その方にどうしてですかと聞くと、息子が高校生で私以上に体格が良いと。そしてよくトラブルが起きると。そうすると、夜中に息子に襲われやしないかということで枕元にバットを置いて寝ているというのです。家中がそんな状態だというのです。
しかしバットを持って、襲ってきたらその息子と渡り合うなどと、そんなことを言っていたら問題の解決はつかないのですよ。信頼関係が壊れているのですから。自分を守ってしまうのですから。だから本当に人間の信頼関係というのは、「お父さんを殺して気が済むなら殺せ」と、そのくらいのことを言わないかぎりだめです。そこまで現代は問われているわけです。息子のことを本当に思わないかぎり言えないですよ。そういうところを門徒はお内仏で育てられるのです。
近年、家の中にお内仏がなくなっているということは、それはある意味で親の責任だと私は思うのです。息子になぜ三折本尊でも渡さないのかと思うのです。これは法義相続です。ナンマンダブツと申す場所があれば、もう三折本尊で十分です。そこで手を合わせる。どこか頭の下がる場所がなかったら人間たすからないと、頭が下がる場所がご本尊の前だと、そこで本当に生まれ変わるのだと。真宗門徒はお内仏があることによって、そういう大変大事な学習をしたのです。
『浄土真宗の葬儀』(東本願寺出版)より
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2020年版⑩)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2020年版)をそのまま記載しています。
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