「私たち」とは誰のことか
(難波 教行 教学研究所所員)
「私たちは差別について学ばなければならない。」
差別の実態を教えられるたび、そんな言葉が私の口をついて出る。しかし、その「私たち」に差別の当事者(被差別者)は入っていないのではないか。差別に関することだけではないかもしれない。災害が頻発する現代、「私たちは被災地や被災者のことを考えなければならない」と確かに思う。でも「私たち」とはいったい誰を指しているのだろう。
一昨年、真宗十派から成る真宗教団連合の研修会で北海道を訪れ、北海道大学アイヌ・先住民研究センター教授の北原モコットゥナシ氏の講義を聞く機会を得た。北原氏は、アイヌについて発信するリーフレットやパンフレットに、「アイヌを理解するために」や「アイヌとともに」といった言葉がよく見られるが、主語に当たる言葉が書かれていないと言う。そしてそれは、女性、障害者、セクシャルマイノリティに関する啓発パンフレットも同様であるとも。(北原モコットゥナシ著・田房永子漫画『アイヌもやもや――見えない化されている「わたしたち」と、そこにふれてはいけない気がしてしまう「わたしたち」の。』303BOOKS、二〇二三年、一二二頁参照)
北原氏は次のようにも述べる。
(前掲書一二三~一二四頁)
マジョリティは、多数派と訳されることもあるが、単に人数によって決まるわけではない。マジョリティとは、社会の中で優位な、中心的な立場の者を指す語なのだ。
北原氏の言葉は、あいまいな総称として語られる「私たち」には、理解される側・助けられる側とされる存在――例示されたところで言えば、アイヌ、女性、障害者、セクシャルマイノリティ――が除外されているのではないか、と突きつけている。氏の言葉はまた、ほとんど無意識に「私たち」と言えること自体が、理解する側・助ける側にいるということだと教えている。
――ここに私は、親鸞聖人の「われら」の語を想起せずにおれない。
親鸞聖人は流罪以降、その土地に住む「いなかのひとびと」に出会い、生活をともにした。そしてそこで生きる人々を、「いし・かわら・つぶて」のようであると受けとめ、自らその一人として「われら」と宣明したのである。
親鸞聖人の語る「われら」とは、本願の呼びかけに応じたものであり、文字通り「十方衆生」を受けとめた言葉である。ただ、より具体的に聖人の念頭にあったのは、「いなかのひとびと」と称される、社会の中で優位でも、中心的な立場でもない存在だったはずだ。
ひるがえって、私は自らをどんな者として、どんな方々を「私たち」と言っているのか。
北原氏の言葉と親鸞聖人の「われら」。両者は私に問い続ける。あなたが何気なく発した「私たち」。その「私たち」とは誰のことか、と。
(『ともしび』2025年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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