念仏とは自己を発見することである

法語の出典:金子大榮

本文著者:髙光紀里(金沢教区專稱寺)


浄土真宗は、念仏でたすかるという教えである。そして念仏とは、「南無阿弥陀仏」と称えることである。


しかし、それを称えたところで、本人がたすかったと思えていない場合でも、お念仏というのだろうか?


「南無阿弥陀仏」と称えたからと言って、宝くじが当たる訳でもないし、親や子どもの病気が治る訳でもなく、大きな家やいい車が手に入る訳でもないし、不老長寿も叶わなければ、無病息災に繋がるという訳でもない。


では、お念仏とは一体何なのだろう?


「南無阿弥陀仏」というお念仏は、どんな時も、阿弥陀仏という仏が、「それでいいんだ。後は私が引き受ける」とおっしゃっていることを、自分がそのまま受けとめることができた時に出てくればいいことであって、自分の利益を目的としたり、何かを請い願うための「呪文」ではない。


つまり、「阿弥陀仏」という現実には実在しないはずの仏が、自分を引き受けてくださるために実在しているということを、わからされて初めて、やっと口をついて出て来る言葉であって、「言わなきゃいけない」とかという強迫観念であったり、「称えておけば何か良いことがあるだろう」などと、仏より自分が先に立って審判を下している間は、アリババの「開けゴマ」だの、ひみつのアッコちゃんの「テクマクマヤコン」だの、自分の都合の良いようにしようという欲望でしかない。


幼稚園の時くらいなら、おばあちゃんにお内仏の横に座らされて、「なんなさんってしなさい(お念仏しなさい)」みたいなことを言われ、素直に「なんなさん」ってしていたかも知れない。だけど、小学校に上がって、中学に行って、高校にもなると、いくらお墓参りでも法事でも、素直に「なんまんだぶつ」と言えなくなって、それは、意味もわかってないのに言っていいのか? とか、口に出すのが恥ずかしいみたいになって、段々と口にできなくなってしまう。


阿弥陀仏が修行時代の法蔵菩薩であられた頃、世自在王仏に教えを請い、弘く煩悩に苦しむ衆生をどう救えるのかを悩み抜いた末に、「私の名前を呼びなさい。私の名を称えた人びとを、私は一人残らず、必ず浄土の国に生まれさせると誓う。もし一人でも取り溢すことがあるなら、私は如来にはならない」と明言されている。「たすけて欲しい人は私を呼んでくれ」と。


それなのに、そこに伸るか反るかを自分で選択しようと思うところに、自力から逃れることのできない、この「煩悩」をもった「私」の傲慢さが見られるのである。


阿弥陀仏という仏は、そういう煩悩に苦しめられている衆生にいつも寄り添ってくださっている。「何も心配しなくていい。いつもあなたの傍にいる。あなたはそのままでいい」と。


「南無阿弥陀仏」とは、その仏の救済を信じさせていただくことができた時に初めて、「たすけて欲しい者がここにいます」という願いを口にする高らかな宣言である。


幸せに思える日も、不幸に思える日も、身に起きるすべての事柄に、自分という人間の真実を顕かにされて、どんなことも「これでよかった」と思えた時に、「なむあみだぶつ」という心の声が自ずと生まれて来るのではないだろうか。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【10月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

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