2002(平成14)年 真宗の生活 5月 【念仏】
<手を合わす>
お父さんやお母さんに「手を合わせて」と言われ、小さな子どもが手を合わす。食事の時、それから法事などのお勤めでも、そういうかわいらしい姿を見ることがあるでしょう。私も小さなころ、意味はわからないにしてもそうしていたに違いありません。
少し大人になり、いろいろなものに反発をおぼえるころ、周りの大人の手を合わす姿が無意味なものに思えました。特にお内仏内仏の前で手を合わせること--大人の真剣な姿を見れば見るほど、不可解不可解な感じがしました。そして手を合わせることがなくなつていきました。
気がつけぽ、そこにあるのは念仏することが難しい我が身。子どもの時、「手を合わせて」と教えられたことは、いつの間にか、手を合わす心を失ってしまった自分を映し出す鏡をいただいていたということでした。
何よりもまず手を合わそうとする心を、先人は身をもって「南無阿弥陀仏」と教えてくれていたのでした。
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え
(『教行信証』・聖典401頁)
導きは、先人の手を合わす姿。訪うのは、私が手を合わすこと。南無阿弥陀仏の歴史は、私たちの身近な生活の中にこそ、確かめられ、ながれゆくのでしょう。
『真宗の生活 2002年 5月』【念仏】「手を合わす」