2002(平成14)年 真宗の生活 7月 【本尊】
<「思い」を立場とはしない>
本尊とは、「本当に尊いこと」という意味で、真宗では阿弥陀如来一仏を本尊としています。いろいろな形(木像、絵像、名号〔言葉〕)で表現されますが、それらの形は、本尊の〈はたらき〉を表したものです。ではその〈はたらき〉とは何をいうのでしょうか。
あるテレピ番組で、出演者が、「仕事も人間関係もうまくゆかなくなった時に、自殺しようと思った」どいう告白をしたのです。その告白に対して、十七歳の少年が次のように発言していました。
「あなたは自殺しようと思ったと冒われましたが、自殺する能力があるのなら、その能力を他に振り向けようとは思いませんでしたか」と。
この発言は、私にはとても印象深いものでした。というのは、それまで自殺できる能力などとは考えたことがなかったからです。この少年は、今の医学では治すことが難しい、筋肉が衰えていく原因不明の病気で、車椅子に乗っており、その時には右手の人差し指と中指しか動かない。だから、自殺すらできない、という紹介があった後、右のような発言があったのです。
ところで、私たちは、生活の中で、実は重大な事実に思いをめぐらすことをしないで生きています。それは、我が〈思い〉に適わない事態が進行しているからといって自殺したいと思うような時にも、その思っている私は、その〈思い〉よりさきに存在しているという事実があるということです。そうです。いのちを与えられているという前提があって、「思いどおりにならない」と悩むこともできるのです。
仏教で罪というのは、この〈思い〉というものを何よりも信頼し、身にまで成っている事実を忘れていく、私どもの認識(知)の持っている闇を自覚した表現であったのです。
この悩んでいる時にも、実は与えられているという、そのいのちにまでなつている〈はたらき〉を南無阿弥陀仏と名づけ、その深いいのちの〈はたらき〉を本当に尊いことと見いだし、本尊としているのです。
ですから、「南無阿弥陀仏」ともうすことは「阿弥陀さんにお任せします。私は私の〈思い〉を立場とはしません」という告白でもあり、確かめでもあるのです。
『真宗の生活 2002年 7月』【本尊】「「思い」を立場とはしない」