2003(平成15)年 真宗の生活 12月 【同朋】
<「孤独な群衆」を超えて>
最近の若者は、なにを考えているのかわからない。電車のなかでも、道ぱたでも、べったり座り込んでは、喋り、笑い合っている。どこでもおかまいなしに大声で携帯電話をかけている。そうかと思うと黙り込んで閉じこもる。たまに口を開くとけんか腰で、どう扱っていいのか分からない、そんな若者たち。
けれども考えてみれば、どんな時代の若者たちも、伝統や規律に反発してきたもの。親も学校も大っキライでした。若者はいつだって、だらしなくて、みっともなくて、大人をイライラさせる無法者たちなのです。が、そんな若者の心のうずき、心当たりがありませんか?
五十年以上もまえに、アメリカの若者たちを「孤独な群衆」と呼んだ人(D・リースマン)がいました。お互いに服装をまねし合い、言葉遣いをまねし合い、仲間はずれを極度におそれて群れている。しかしお互いに深く交わることで傷つけ合うことになるのを避け、どこかよそよそしい孤独な群衆-これは、今日の日本の若者たちにも通じる話です。
今、「わたしも、そういう若者のひとりだった」と言える人は、凍えるような孤独の不安をよく知る人でしょう。そして、人間につきまとう深い孤独感がどこで解かれるのかという問題は、じつは仏教の中心的な課題なのです。安易に群衆へと逃げ込むのではなく、教えに教えられながら「独生独死」(『仏説無量寿経』・聖典60頁)の生を生き抜く。ここに、時代と社会を超えた真のつながり-同朋-は開かれるのです。
『真宗の生活 2003年 12月』【同朋】「「孤独な群衆」を超えて」