武力でなく本願力恃み
日本国憲法は、前文第二段で、次のように宣言しています。
【日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。】
私は、ここに真宗と通じるものがあるように思います。「恒久の平和」は「浄土」と、「崇高な理想」は「阿弥陀の本願」と重なります。そして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」すると言い切れるのは、本願が全ての諸国民に届いているからでありましょう。これは、「日本国民は本願に立って平和を維持する」という宣言です。そして、「専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖・欠乏」をなくす努力をしている国際社会で名誉ある地位を占めたいという誓約は、「地獄・餓鬼・畜生なからしめん」という大無量寿経の「無三悪趣の願」と重なります。さらに、戦争放棄・戦力不保持を規定した第九条は、釈尊の「殺すな、殺させるな」という「不殺生戒」、そして大無量寿経の「兵戈無用」(武器も兵隊もいらない)と重なります。私は、日本国憲法は、武力ではなく本願力を恃み、本願に願われた世界を求める国家を目指した「本願国家宣言」、日本国民の「南無阿弥陀仏」だと思います。
三悪趣国家目指す改憲
これに対して、自民党改憲案の前文は、次のように述べています。
【日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。】
改憲案では、国民ではなく国家が前面に出ています。そして、国家の歴史・文化、天皇制、発展と重要国化が誇られています。ここには、地上の国家は「穢土」であるという、阿弥陀の視点はありません。国民は、国土防衛や相互協力による国家形成、経済活動による国家の成長、そして国家の継承のための存在とされています。これは、国民を国家に従属する「畜生」とするものです。また、経済成長を国家目標とすることは、「餓鬼」でありましょう。改憲案では、「平和主義」も、友好関係の増進と平和・繁栄への貢献という無内容なものに貶められています。そして、第九条は自衛戦争を認める規定に変えられ、国防軍の保持、国際的軍事行動への参加、軍事法制の整備、国と国民の防衛協力義務等を定める条文が新たに追加されています。これは、戦争する国、「地獄」を求める国を目指すものです。改憲案は、「地獄・餓鬼・畜生」の「三悪趣国家」を目指すものと言わざるをえません。
親鸞聖人の念仏の回復
本願に立つ真宗門徒が選ぶべき憲法が現在の日本国憲法であることは、明らかだと思います。ただし、このことは、現行憲法と現在の日本国が理想の国家であることを意味するものではありません。本願に照らして見れば、現行憲法にも不十分な点は多々ありますし、憲法の理念が十分に実現されているわけでもありません。福島や沖縄の現実は、その典型です。その視点に立った憲法の改善と憲法理念の実現が、求められると思います。また、最近は、解釈や立法によって憲法を有名無実化する「実質改憲」の動きも顕著です。このような動きも、厳しく監視し、阻止しなければなりません。
しかし、本願に照らしてわが身を見れば、自分自身がその現実を支えていることに気付かされます。現状を座視・傍観・黙認・支持しているのは、私たちです。そこには、三悪趣を生きる私たちがあります。私たちは、三悪趣に安住するような念仏しかしてこなかったのではないか。今こそ、親鸞聖人の真宗念仏の教えに立ち帰り、本願に生きる生活を始めることが願われているのではないでしょうか。
真宗大谷派 難波別院発行『南御堂 2014年9月号』から転載