「今日、入所されているおじいさんが亡くなられました。今度の例会の時に『追悼法要』をおこないたいと思います」。いつも宗教ボランティアとして伺っているグループホームの管理者Iさんからの電話だった。
大聖寺教区では、二十数年前から老人介護施設への訪問活動を「宗教ボランティア」と名付け、教区の教化事業として取り組んでおり、私もその一端を担っている。
『人間といういのちの相Ⅰ』(東本願寺出版部発行)の中で、理学療法士の三好春樹さんは、介護という現場を、「これまでの医療は今日より明日、明日より明後日がよくなるという世界なんですが、介護は違います。今日が一番いいんです。明日になるともっと歳を取るし、明後日はますます歳を取るわけですから、今ここでできないことは明日になればもっと難しいし、明後日はもっと難しいんですね」と的確におっしゃっている。また、介護する人は「老い」という人間ドラマを見つめることが仕事であり、まずその人をまるごと肯定して、ここで一番その人らしい生活は何かということを、どう実現するかが課題なのだとも指摘されている。
このことは、介護という現場が、偽りなき浄土(彼岸)の光に照らされて、今をこの私のままで生きていこうと、歩みを進めている私たちとの共通課題を持っているのだと知らせてくれる。
その一方で介護の現実は多くの問題をはらんでいる。経営効率の観点から入所者一人ひとりと向き合う時間が削られ、機械的な対応をしてしまう。夜間勤務が一人体制である場合が多く、ストレスも溜る。そんな実態の中で、スタッフによる入所者への虐待が報道されることもある。
さらに、近年になって今までは課題となってこなかった新しい課題が表出した。それは「看取り」の問題である。
もともと介護施設はリハビリの場として設けられたもので、入所者の死は想定されていなかった。しかし今、施設で人生を終える人の割合が急増している。そこに、若いスタッフが「死とどう向き合うか」という課題が持ち上がったのである。
「看取り」には二つの内容があると考える。まず、一人ひとりの人生に対し、「ようこそここまで歩んでくださいました。ご苦労様」と手を合わすこと。いま一つは、生き遂げて死にゆく姿、寂静の世界(彼岸)に還られる姿をしっかり見届け、自分の人生への学びとすることなのではないだろうか。
こんな私の意を汲んでか、管理者Ⅰさんは追悼法要後の感話を次のような言葉で締めくくられた。
「亡くなられたHさんは戦前、旧満州鉄道に勤務され、終戦時の混乱の中、いのちからがら帰国されました。その後も人一倍苦労と努力を続けてこられました。そんな人生模様こそがHさんの勲章だったのだと思います。このようにいのちを全うされた姿を人生の先輩として尊んでいくと同時に、どんな人生も『老・病・死』の理をもって終わっていくことを私たちに見せていただいたのだと感謝して、追悼の言葉とします」。
大聖寺教区因乘寺住職 家山 勉
『お彼岸 春』2014年版より