-大切な方を亡くし悲しみに包まれている葬儀や通夜の場。しかし、家庭や地域社会での関係性や、故人の死因によって、充分にその悲しみを表現できない人もその場には存在しています。こうした場を共にする「僧侶」には、いったいどのような役割があるのでしょうか。葬儀などの場、そして、大切な方の「こころ」の声を聞く取り組みを重ねて来られた蓮容健住職に、その歩みから感じたことをお話しいただきました。
大切な方を亡くす~悲しみの場における僧侶の役割~
文 : 蓮容 健(真宗大谷派蓮容寺住職、真宗大谷派名古屋教区教化センター嘱託職員)
♣「僧侶」の役割?
私が僧侶となって、はじめて枕勤めを行ったのは、30代後半の頃だったように思います。
年末の深夜に「母が亡くなり、今、自宅に帰ってきました」の電話を受け、ご門徒宅で息を引き取って間もないご遺体の側で緊張しながらお勤めをしたことが思いだされます。その夜はなかなか寝付けず、悶々とした記憶が残っています。ご遺族に対し、何の気の利いた言葉もかけられず、ひたすら緊張していた私。それでも法衣を着た私がご門徒宅を訪問したとき、ご遺族方は安堵し、迎えてくれました。
たとえ私自身は未熟であっても、法衣を纏(まと)った者がお勤めをすると、故人の死を悼む時間と場がそこに生じる。これから始まる葬送儀礼にまつわる様々な手続きを前にして、ほんのひととき、そこに集う人々に、故人を悼む時間と場所が確保される。長い時間をかけて民衆の悲しみに寄り添ってきた仏教の歴史を感じます。
僧侶の意識や習熟度を超えて、地域共同体の中に「型」として既に定着している「僧侶」の役割。僧侶は、決まった装束を身に纏い読経をすれば、一定の役割を果たします。しかし、その内容について、一度吟味する必要があるように感じています。
♣仏事の場で傷つけられる自死遺族
私は10年程前から、宗派を超えた有志僧侶らによる「いのちの日 いのちの時間 -自死者追悼法要-」という法要にかかわっています。そして法要後に行われる自死遺族による「分かち合い(※)」 の進行役をさせていただきます。そこに参加される遺族(恋人・友人の場合もある)は、日頃は語ることのない亡くなられた方への想いや、悲嘆や自責の念を吐露されます。そして、参加者がこれまでに出会ってきた宗教、寺院・僧侶への不信、疑問、憤りなども語られます。
※ 僧侶が進行役となり、ご遺族3人~4人毎の班に分かれて日頃の思いや故人との思い出を語る
・「自殺したお父さんは悪い手本を見せてくれた。残された遺族は命を大切に・・・」と、通夜で説教されたが、父のことを何もしらない人に悪人呼ばわりされ、とても傷ついた。
・自殺した人は地獄に落ちると聞いたが、生前散々苦しんで、あの世でも苦しんでいると思うとかわいそうで仕方ない。
・亡くなった夫の宗旨で葬儀・法要をしたが、夫の親族から責められているように感じてつらかった。
・お寺に相談していることを、夫や義父母(自分以外の家族)に知られたくない。
・地元のご住職は親切な人だけど、地域の人に自殺であることが広まってしまいそうで相談できない。
・他の人の葬儀で「安らかな死に顔」に触れた法話を聞いたとき、「安らかな死に顔でなかった」父の死が受け止められなくなった。
・気が動転しているなか、通夜説教で教団の宣伝をされて、とても不快だった。
など、様々な声を聞かせていただきます。語る側がどんな願いを込めたかは図り知れませんが、ご遺族の状況を鑑みれば、胸が痛むお話もあります。しかし、そのような体験談の中に、日頃、私自身が何気なく語りそうな一言に傷ついておられる方がいることに「はっ」とさせられるのです。
♣「よき僧侶」であろうとすることによって見失う「一人」
葬儀などの場は、日頃からお付き合いをしている方もいれば、初対面の方もおられます。故人との関係や親族の中での立場も様々です。参列されている方の宗旨・宗派もバラバラ。そのような状況の中で、心身ともに最も弱っている人に気づき、そういう人々に思いを馳せることができているかと言えば、全く無自覚に対応している日常が照らしだされます。
よく「お通夜で法話を!」という声も聞きますが、通夜式は「法話会」ではないので、聞きたい人もいるかもしれませんが、聞きたくない人、聞く余裕のない人もいることを忘れてはいけないように思います。
様々な人が参列している中で、誰に向けて話をするのか。聞き手がどのような状況にあるのかを無視して、独りよがりに語るならば、時に、聞き手を苦しめ、孤立させ、故人の死因による差別を助長させかねません。私たちは、知らないうちに最も傷つき教えを必要としている人を孤立させ、追い込んでしまうことがあるのです。
葬送儀礼の中では、法衣を身に纏(まと)い読経をすれば、本人の想いとは関係なく、様々な役割を果たすことができてしまう「僧侶」。しかし、この役割の中には、悲しみに寄り添うという側面ばかりでなく、遺族をとりまく共同体の秩序維持という一面も含まれていることを、あらためて自覚しなければならないように思います。
たとえば、葬送儀礼の中に含まれる喪主による立礼や挨拶などは、葬儀式を通じて「遺産相続の代表者が誰であるのかを表明する」という機能も含まれており、遺族の心身の状況などお構いなしに、その役割を果たすことが強要されたりします。
「僧侶」という役職にも、「僧侶」一人ひとりの思いとは別のところで様々な役割が付帯しており、そのことが苦しい立場の人を救うこともあれば、より追い込んでしまう働きをすることもあることを知らなければならないと思います。
♣ものをあわれみ、かなしむ私
では、どうすればいいのでしょうか。何もせず、地域共同体の中に「型」として既に定着している「僧侶」の役割だけをはたせばいいのか。それとも、積極的にグリーフケアなどの悲しみに寄り添うための学びを取り入れ、新しい儀礼のかたちを提案すべきなのか。私自身の中では答えは出ていません。
しかし、いわば本能的に、または無意識のうちに、世間からの様々な期待や要望を感じて応えようとふるまったり、あるいは、僧侶としての使命感から何かをしたくなる自分がいます。それは、「善かれ」という形で私の想いの中に湧き上がってきます。しかし、この「善かれ」によって、人々を仏教から遠ざけてしまうことがあることも知らなければなりません。
私たちは、様々な努力・工夫を試み「善かれ」と思いながら、自分の思いとは裏腹に排除と差別を繰り返しています。そんな私自身の日常を確かめつつ、人間としての分限を確かめ続けるしかないように思います。
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
(歎異抄 第4章)
「僧侶としての私」は、これまで幾度もご遺族を傷つけてきたことを自死遺族の方々の苦悩の声から思い知らされます。しかし、人は誰しも、出口のない苦しみ、悲しみに遭遇したとき、ともに歩んでくれる人を探します。
「大切な方を亡くした悲しみの場における僧侶の役割」は、一緒に探すことなのだと思います。しかし、社会や地域という共同体の一員としての体面を維持しようとする自分も出てきます。その二つの狭間で、うろうろしている今日この頃です。
(おしまい)
■執筆者プロフィール
蓮容 健 (はすい けん)
1968年、東京都生まれ。真宗大谷派蓮容寺住職。
大谷大学卒業、真宗大谷派宗務所の勤務を経て、現在は住職のかたわら真宗大谷派名古屋教区教化センター嘱託職員として勤務。「いのちに向き合う宗教者の会」立ち上げより関わる。
► いのちに向き合う宗教者の会HP
► 真宗大谷派名古屋教区教化センターHP
■「いのちに向き合う宗教者の会」に関するしんらん交流館HPでの記事