国立療養所奄美和光園
草津崇信教会の歩み
<ハンセン病問題に関する懇談会委員 朝比奈 高昭>
一九三二(昭和七)年開設の栗生楽泉園、そして真宗大谷派教会の歴史を振り返る時、「湯之沢」(自由療養区)の存在を忘れてはならないであろう。草津温泉には古くから全国から病気療養のために訪れる患者がいた。特に一八六九(明治二)年、草津は大火により全焼し、その復興のため全国に誘客の宣伝をするのであるが、その一文に「らい病に効能あり」と謳ったことにより、全国からハンセン病治療のため来訪する者が多くなった。その結果一八八六(明治十九)年、草津戸長の角田浩平氏は「草津改良会」を起こし、ハンセン病患者と一般浴客の分離を企図した。
ハンセン病患者自身による「自由療養村」は、当初患者の反対を押し切って、一八九三(明治二十六)年に開村した。開村から十年近くの間は、相愛互助の精神で穏やかな共同体であったが、病気の治療もはかばかしくなく、次第に治療費も底をついて享楽的になり、賭博などが蔓延するようになった。そんな状況を憂えた兒玉信義氏、下間敬氏らが、一九〇一(明治三十四)年頃、縁あって近角常観氏に願い出て浅草別院の計らいで、本山より六百円、東京養育院の光田健輔氏などの寄進や湯之沢の旅館主などの有力者からの寄付を受け、紆余曲折を経て一九一二(大正元)年十一月、「大谷派本願寺草津説教場」と命名し、遷座式をあげた。本願寺は初代近角常観氏、二代本多恵孝氏、三代藤井宗教氏、四代和光堅正氏らの布教師を送ったのである。特に和光氏は千葉から年四回ほど説教に訪れ、湯之沢住民の信望は篤く、説教の日は聴衆で会堂があふれたという。和光氏は後に楽泉園開園後の大谷光明寮建設にも尽力をすることになる。
湯之沢は、最盛期には人口約八百人を数える程になったが、温泉街に隣接した湯之沢の存在が草津温泉の発展を阻害するとして、草津町は湯之沢部落の町からの分離・移転を県に請願し後の一九二六(大正十五)年に移転が決定された。この背景には一九〇七(明治四十)年に公布された「癩予防ニ関スル件」(らい予防法)に依ることは言うまでも無い。
湯之沢住民は「らいの厳しい偏見と恐ろしい強制隔離から世をみ、自らを捨てて、この湯之沢へ最後の望みの綱をたぐって集まって来たのである」(御座の湯口碑より)といわれるように、自らの手によって築き上げた「自由療養村」という湯之沢の終焉は、ハンセン病を患ったが故のさらなる迫害の道程であった。
大谷光明寮お内仏 この頃より園に説教場を願い出るが、一九三六(昭和十一)年に大谷派本山より千円が下付され、翌年に「大谷光明寮」の落成をみた。「光明寮」の名も、和光氏が光明皇后の名にあやかり命名したものである。この頃から信者は増え、読経の稽古等を行うのを見た書記官は喜び、古見園長らに伝えたところ、物故者の慰霊祭を真宗大谷派で行うよう和光氏に依頼したのである。
崇信会が開園当初より多くの信者を集め、園当局より信頼を得るようになったのは、湯之沢時代から引き継がれた大谷派の布教師らの尽力があってのことであろう。当時を振り返って「慰問布教」と一言で済ませることは差し控えたいと思う。
二〇一八年現在、在園者は七十一名、内崇信教会会員三十一名。
私が「お寺」で出会った多くの方々から賜ったご恩は決して忘れることはない。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年4月号より