療養所を訪ねて①松丘保養園
「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」第1連絡会委員 本間 義敦
奥羽教区で毎年行ってきた、松丘保養園との交流会が開催できなくなって一年が過ぎました。未だ収束されない現状で、今まで通りの交流から新たな交流の形を考える一年でもありました。毎年十二月にカレンダー配りをしていましたが、昨年からは教区の共生協議会委員のメッセージを書いたお便りと、僅かながらプレゼントを合わせて保養園に送りました。今年に入り、オンラインを活用しての交流ができないかと考えていたところ、自治会では各園との会議にオンラインを使って行っていると教えていただき、教区としてオンラインでの交流の形を模索しているところです。これまで三度の緊急事態宣言が出されるなど、社会的混乱の中で松丘保養園に入所されている方はどの様に過ごされてきたのか、松丘保養園自治会とオンラインを使って次のようなお話を伺いました。
■交流の注視・生活の制約
松丘保養園の年間行事は、地域の方と一緒に楽しむもの(観桜会・納涼祭り・敬老会など)が多くあるが、昨年はすべての行事を中止した。地域の人との一番の交流であるゲートボールが園内でできないことも大きな痛手である。松丘の中に新しくできた社会交流会館も現在は休館になっており、新型コロナがみんな奪ってしまった。人との出会いをみんな待っている。
また、ワクチンの接種だけでは元のように交流ができるかどうかはわからない。コロナによって、外からの交流が中止になったのと同じ様に、外出しての買い物など生活面での制約もある。買い物はコロナ以前では日にちを決め送迎車で出かけることがあったが、今は代行してもらったり、短い時間で済ませないといけない。コロナの影響が広がる中での葬儀も、人が集まり、外部からの人も来るため、どの様に行うのか考えなければならない。高齢者が多い保養園では、基礎疾患がある方も多い、自分よりも年配の先輩たちを感染から守りたいとの思いがあるが、当たり前の日常が戻ってくるのかどうか、それがいつになるのか心配である。
■偏見差別について
今の新型コロナ感染者への偏見差別は、自分たちが受けてきた偏見差別を思い出し辛い思いをしている。特に医療従事者やその家族に対しての偏見差別には、憤りを感じている。らい予防法違憲国家賠償請求訴訟ならびにハンセン病家族訴訟から教えられていることを、これまで以上に啓発する必要があるのではないか。また、手洗い・消毒についても、手に後遺症があったり傷があったりするのでしにくい人もいる。
■今取り組んでいること
これまでも、毎月初めに会議を設けて月の行事の有無を決めている。人を保養園に招いての講演会は難しいが、園外に出向いての講演やオンラインでの講演を頼まれて行っている。広島県の高校生へ講演をしたが、離れた地域をオンラインが結んでいることで、啓発や活動ができると感じている。
■僧侶への願い
偏見差別が形を変えて現れている社会に、僧侶としてどう向き合っていくのかを表現していただきたい。一気に変わることも大事だが、一つ一つコツコツと向き合って歩みを進めていただきたいと思う。
以上のように松丘保養園の自治会と懇談を行いました。
オンラインでのお話の中で言われた「僧侶としての表現」と「歩みを進める」ことからあらためて思い起こしたことは、私たち大谷派の謝罪声明の中に書かれていた、「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」をもたらしたことを教団は懺悔したということと、「私たち自身が継続的な「学習」を続けていく」ということです。家族訴訟においても、その「もう一つの苦しみ」が、教団としても大谷派の僧侶としても関わる大事な視点であったように思います。
また「継続的な学習」とは、今このコロナの現状を考える時、謝罪声明の言葉は私自身を含めどう響いてくるのでしょうか。新型コロナを発症したことや治療が済んだ後も社会から分断され、差別偏見の目に晒されている方がいるという現状は、「もう一つの苦しみ」がこの社会に未だ厳然とあるということではないでしょうか。それは、「継続的な学習」を私たちが行ってきていたのかという問いかけに思います。
私自身の関わりを思う時、いつも思い出される言葉があります。「形を変えて現れてくる差別にちゃんと目を光らせていただきたい」という言葉です。以前、山陽教区でのハンセン病問題全国交流集会でいただいた言葉です。今回の松丘保養園自治会との懇談の中でも、「僧侶としてどう向き合っていくのか表現していただきたい」との願いを受けました。念仏の教えに生きるものとして、継続的な学びと、学びの発信(差別偏見に目を光らせること)で表現をしていただきたいと、願われていることではないでしょうか。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』2021年6月号より