東本願寺の御影堂には歴代の門首と「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」の九字名号、「帰命尽十方(きみょうじんじっぽう)無碍光如来(むげこうにょらい)」の十字名号の軸が、阿弥陀堂には聖徳太子と親鸞聖人が「正信偈」に示された、龍樹(りゅうじゅ)菩薩、天親(てんじん)菩薩、曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)大師、善導(ぜんどう)大師、源信(げんしん)僧都、法然上人の七高僧を描いた絵像が安置されています。

  6世紀に仏教とともに伝わった仏教絵画は、日本の仏教の広まりとともに広がり、日本の文化に溶け込んで独自に発展しました。平安時代の中頃までは唐や大陸の風物が描かれていましたが、そこから学んだ技法を用いて、日本の風物を描いたやまと絵が描かれるようになります。

 やまと絵は、源氏物語や親鸞聖人御絵伝(ごえでん)などの絵巻物に多用され、屋根を外して建物の中を見えるようにする「吹抜屋台(ふきぬけやたい)」や、同一画面内に同じ人物が何度も登場して時間の経過を表す「異時同図法(いじどうずほう)」などの技法があり、日本独自の表現が育まれました。

 鎌倉時代になると、禅宗とともに水墨画が伝わりました。そして、この頃から絵師が注目されはじめ、南北朝時代には土佐行光(とさ ゆきみつ)を祖とするやまと絵の伝統を受け継ぐ土佐派が起こりました。

 室町中期になると水墨画とやまと絵の融合により新たな世界観を生み出した狩野派が活躍します。特に狩野永徳(かのうえいとく)は、大きく豪華な障壁画を描いて織田信長に見出され、その後、狩野派は江戸時代を通して幕府の御用絵師(ごようえし)となり、東本願寺とも交流があったといいます。

 東本願寺では、蓮如上人と次の実如じつにょ上人時代より各地の寺院に軸装にした名号や御本尊などを授与されはじめたということが分かっており、江戸時代には東本願寺の境内に御本尊などを描いたり表装する「表補絵会所」がありました。

 これらの御本尊を描く画材は、紙や絹に墨や鉱物、土、胡粉(ごふん)、植物や動物などから抽出した染料や絵の具、さらには金など天然の素材で、(にかわ)で接着する技法を用いて描かれました。

 本尊の背景には群青が使われていることが多いですが、天然の群青はアズライトと呼ばれる鮮やかな鉱物から作られ、その語源は、ペルシャ語の「azure(青い)」という意味に由来すると言われます。アズライトは空気中の水分を吸収すると、緑色のマラカイト(孔雀(くじゃく)石)に変化する性質があるため、まれに時間が経過すると青で描いたものが緑色に変化したということもあるそうです。