1481(文明13)年には、加賀の守護の冨樫政親の信仰弾圧を脅威に感じた越中の人々は一向一揆を起こし、政親と結んだ福光城主石黒光義の軍勢を打ち破ります。
そして、1488(長享2)年、加賀の一向一揆は政親を打ち破り、この地に「百姓ノ持タル国」といわれる幕府や大名の支配が及ばない真宗門徒の国ができました。
井波の瑞泉寺は城端の善徳寺、勝興寺とともに、越中一向一揆の拠点となりました。1580(天正8)年に信長と本願寺が講和後も越中の佐々成正に抵抗するも1581(天正9)年に井波の町もろとも焼き払われます。
善徳寺第6代空勝は、1570(元亀元)年から始まる本願寺と織田信長との石山合戦に参加し、本願寺第12代教如上人を支え続けました。
翌年に信長が死去すると、豊臣秀吉が瑞泉寺に対して秀吉に叛いた成正に一揆を起こすように催促し、1585(天正13)年に成正が秀吉に降伏。これより、瑞泉寺の寺領が秀吉に認められ、刀狩り政策と相まって越中一向一揆は終息しました。