その歴史は、本願寺第5代綽如(しゃくにょ)上人が北陸で布教したことに始まります。

 綽如上人が本願寺第5代になったのは、1375(永和元)年26歳の時でした。当時は、関東では高田門徒が、西日本では仏光寺門徒が勢力を拡大していました。そのため綽如上人は、親鸞聖人の教えが広まっていなかった北陸地域におもむいて教えを伝えることにしました。

 綽如上人は、聡明な人物としても知られており、朝廷に届いた明(中国)からの難解な手紙を読み解き、それに喜んだ後小松天皇から寺院の建立を認める勅許(ちょっきょ)が出されたと伝えられています。そして、寺院を建立する場所として、綽如上人は越中(富山県)の井波を選び、勧進状(かんじんじょう)を用いてこの地に瑞泉寺を建てたといわれています。

 瑞泉寺の本堂は、その床面積は1978㎡と、東本願寺御影堂(2891㎡)、東大寺大仏殿(2877㎡)西本願寺御影堂(2167㎡)につぐ日本で4番目に大きな木造建築の建物です。そして、その巨大な伽藍(がらん)を支えたのは、井波大工でした。加賀藩主の前田利家・利長が伏見城造営等に功績のあった大工を井波に移り住まわせたことを始まりとする井波大工は、東本願寺を始めさまざまな寺社建築に力を発揮しました。

綽如上人の後も、第6代巧如(ぎょうにょ)上人、第7代存如(ぞんにょ)上人と北陸地域に教化の重点を置きました。この布教が素地となり、やがて第8代蓮如上人によって、広く親鸞聖人の教えが広がり、北陸地域は、「真宗王国」ともいわれるようになります。

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