井波別院瑞泉寺は、これまで何度も火災に見舞われてきました。

1762(宝暦12)年の焼失の際に京都の東本願寺から御用彫刻師・前川三四郎が派遣され、地元の宮大工・番匠屋九代七左衛門ら宮大工4人にその技を伝えたことから、井波彫刻が誕生しました。

1792(寛政4)年、瑞泉寺勅使門(ちょくしもん)の門扉の両脇に彫刻した「獅子(しし)の子落とし」は七左衛門の代表作で、日本彫刻史上の傑作(けっさく)とされています。そして、この地の土徳(どとく)と職人の技術が東本願寺の再建で発揮されることとなりました。

東本願寺は、東西分派後の江戸時代に4度の火災に遭いながらも、全国から駆けつけた数多くの僧侶・門徒らによって、その度に再建されてきました。

特に井波彫刻師の岩倉理八は東本願寺の彫り物の責任者を務め、他の井波彫刻師たちとともにその技術を発揮しました。 再建の際には、僧侶・門徒は出身地域で宿泊所を建てて、夜は仏教や真宗の話を聞きながら、昼間は両堂の再建に携わっていました。

それが現在も東本願寺の門前に残る詰所(つめしょ)です。その一つに井波や城端(じょうはな)があった砺波(となみ)郡の人びとが宿泊した砺波(となみ)詰所(つめしょ)があります。

獅子(しし)の子落とし(井波別院瑞泉寺)