砺波詰所の2代目主人として知られるのが砺波(となみ)庄太郎(しょうたろう)(1834年~1903年)です。本名を坂東忠兵衛といいましたが、砺波郡の出身であることから、砺波庄太郎と周囲から呼ばれていたといいます。

砺波庄太郎は1858(安政5)年に焼失した両堂の再建に従事するために上京し、その後、1861年(文久元)に砺波詰所主人となりました。

1864(元治元)年の禁門の変による焼失の際に、全国から僧侶や門徒が集まり再建されることとなった時、砺波庄太郎は再建に従事する人々を統括(とうかつ)して身を粉にして尽くしたといいます。

また、井波や城端などの地域では、夫婦で東本願寺の再建にあたる間に、地元に残された子どもたちを養育したのはお講であったといいます。

1903(明治36)年6月21日、庄太郎は71歳で没しました。亡くなった富山県で盛大に葬儀が営まれましたが、翌7月9日には、本山にほど近い総会所において、追悼会が執り行われました。長く東本願寺の再建作事部長を務めた三那三(みなみ)能宣(のうせん)は、庄太郎こそ「妙好人」であると評しています。

砺波庄太郎
大谷祖廟にある庄太郎のお墓