柳宗悦は、無名の職人たちの仕事を根本から支えるのが第四願であり、念仏を称える人を阿弥陀仏の国に迎えられるという第十八願が人間を救うとすれば、第四願によって、弥陀の救いは人間がつくる物にまでもおよぶと考えました。
民藝は、日常の生活の中で使用する実用品であり、その品がそのまま美となり、それらの美が人々の日常の生活に活きてこそといいます。
民藝の美論が一宗を形作らんとするには、等しく無上な典拠があって然るべきではないか。民衆の宗教として立った念仏の一道は、その信仰や教学の凡てを、阿弥陀如来の大願に基づけ、わけてもその第十八願、即ち「念仏往生の願」に托していることは、誰も知る通りである。今年の夏、偶々『大無量寿経』を繙いて、その悲願の正文を読み返しつつあった時、第四願に至ってはたと想い当るところがあった。
(柳宗悦『新編 美の法門』「美の法門 後記」)
この世の多くの優れた作品が一文不知の名もなき工人たちによって作られている事実を、どうすることも出来ぬ。あの大茶人たちが讃えぬいた「井戸茶碗」は何よりの例証ではないか。誰が作ったかも分からぬ。一人や二人ではない。それも貧乏な陶工に過ぎなかったのである。各々が天才だったなどと、どうして判じ得よう。平凡極まる工人たちだったのである。それも安ものを作るのである。一々の美しさなどを意識してはいられない。むしろ荒々しく無造作に作ったのある。
(柳宗悦『新編 美の法門』「美の法門」)
私が何故に民藝品に厚い敬愛を抱くかは、そこに端的に美しさを見た事に依るのは勿論でありますが、私はそれが「凡夫成仏」の教えに活きた姿となっているのを感じたからであります。つまり下輩の職人たちが、そのままで無類の美を生み得る縁を受けているのを見るからであります。即ち何故私が多くの民器に特に心を惹かれて来たかは、凡夫が凡夫のままで美の浄土に迎接されている様が、そこによく形となって示されているからであります。
(柳宗悦『新編 美の法門』「法の美」)