病棄て~NAGASHIMAの記憶を映画で繋ぐ~(上)
映画監督 宮﨑 賢
■ハンセン病問題の取材を始めたきっかけ
映画「NAGASHIMA~・かくり・の証言~」は、長島の方々の思いを一人でも多くに届けたいという思いで制作しました。
ちょうど今から40年前、長島架橋運動が始まっていた頃、当時の厚生大臣が視察に来ることがありました。大臣が地方に来る時は、中堅からベテランのカメラマンが取材に行くのですが、この時は誰も手を上げなかったのです。その当時、メディアにも偏見があったのだと思います。先輩たちの中にも、偏見差別に満ちた視線や言葉がありました。28歳だった私は非常に憤慨して、報道カメラマンがそれで良いのかと思い、上司に取材を志願しました。先輩たちに対する批判の気持ちもありましたが、私自身もハンセン病については勉強不足で、長島の桟橋に降りた時には足がすくみました。でも、報道カメラマンの使命感で取材に行きました。
当日は入所者の自治会の会議室で、架橋促進委員長が大臣に訴えかけていました。「とにかく橋を架けてほしいと運動を続けてきたが、高齢化してきているので、橋が架かるということが決まれば気持ちの上でも違う効果があります、一日でも早く島流しの生活を終わらせてほしい」と。そして「どうか助けてやってください」と言われました。その言葉が私の胸に突き刺さりました。しかし会社に帰ると、短いニュースで終わるのです。これではいけない、なんとか映像を残したい、いつかはドキュメンタリーを作りたいと思って、取材したビデオテープに上書きせず、周囲に内緒で残していました。
架橋運動を取材したいと言い続けても、長らく取り合ってもらえませんでしたが、取材のコンクールのテーマを決める会議で先輩が私の企画を提案すると、報道部長が許可したのです。瀬戸大橋の大規模工事がある一方で、長島の橋はあまり注目されていませんでした。取材の際、入所者の方に「長島は海がきれいですね」と言ったら、「外から来た人はみんなそう言うんですよね。私たち入所者にとっては故郷に帰れない灰色の海です」と言われたことが強く印象に残っています。
その頃、島田等さんという方が書かれた『病棄て─思想としての隔離』(ゆみる出版、1985年)を読んでショックを受けました。「保健衛生政策としての近代日本のらい行政は、長い間、患者にとって・病棄て・というにひとしい非情なものであった」と始まるんです。「人々は、わが身に降りかからぬかぎり、人が人を棄てることを容認してきた」と。これは本当に、もの凄い衝撃でした。私自身も無関心でした。非常に難しい、中身の濃い評論集です。この本に出あって、ハンセン病問題をやりたいと思いました。
■映画のタイトルが「NAGASHIMA」「かくり」である理由
この映画を作った一つの目的は、これまであまりメディアに出ていない人たち、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」(国賠訴訟)で取材を受けた人ばかりではなく、名もなき、ひっそりと島の中で人生を送っている人に焦点をあてたいということでした。みんな、自分の存在を隠しています。家族も差別を受けてきた、療養所にいることを隠して生きてきたから、これ以上家族に迷惑をかけられないというのが入所者の思いです。
長島をアルファベット表記にしている意味は、世界に通じるようにするためです。私が2010年にノルウェーのハンセン病の政策を取材した際、ノルウェーでは日本と全く違う政策がとられていました。家庭内隔離で部屋を別にして生活すれば問題ないとして、患者の人権が尊重されていたのです。またノルウェーでは、長島愛生園が国立で最初の療養所ということもあって長島に関心を持たれていて、「NAGASHIMA」として知られています。資金があれば、映画の英語版を作ってみたい夢もあります。
もう一つ、「かくり」という字がひらがなである意味ですが、12歳で隔離された入所者が「長島に来た時、隔離という漢字は習っていませんでした。それを音で聞いて以来、私はひらがなで「かくり」と書いて背中に貼って歩いてきた人生です」と言われたことをきちっと伝えないといけないと思いました。国の誤った政策がそこで見えたのです。だから、そのことをタイトルにしようと思いました。
もう映画で取材した人の内、既に10人が亡くなりました。今は、邑久光明園でも長島愛生園でも、戦前の話を聞ける人はおられません。この映画を通じてしか伝えることができないので、作って良かったと思います。
■入所者ご夫婦の墓参り
映画の中に、入所者ご夫婦がお墓参りをされる場面があります。そのご夫婦は晩年お体が不自由になり、「最後になるかもしれないから故郷に帰りたい」と仰ったところ、地域の小学校の教員のグループの方々がサポートを申し出てくれましたので、私がボランティアで車を運転して連れて行きました。その時に小学校で子どもたちと交流したのですが、今の時代、児童の顔が映る映像を使うのは難しいと思っていました。しかし、先生が保護者全員に手紙を書いてくださって、「地元テレビ局の元カメラマンが取材に来るから」と説明し、全員から許可を得られました。信じられないことで、感動的なシーンでした。
■歴史的な記録として
映画は九年前から撮影していたのですが、撮影を始めるタイミングは絶妙だったと思います。いま聞こうと思っても、しっかりした話が聞けないと思うからです。私は40年長島に通っているので、あやふやな証言や間違ったことは、歴史に残す意味で全部カットしています。100時間撮影しましたが、カメラを向けていない時の発言内容と同じようなことは残して、作文しているようなことはカットしました。
特定の主人公を作ると歴史に残りません。だから長島というもの、その中で証言してくれる人に注目しました。そこから長島の人たちの生活や人生が見えてきます。これは次の人たちに伝わると思います。長島を記録した証言ドキュメントとしては、最初で最後となるのではないでしょうか。
※長島架橋運動…長島愛生園と邑久光明園が所在する瀬戸内海の長島と、対岸の岡山県邑久町(現・瀬戸内市)の間に橋を架けるよう、両園の入所者が1971年から厚生省(当時)・岡山県・邑久町に対して働きかけた運動。橋は瀬戸大橋と同年の1988年に「邑久長島大橋」として開通し、「人間回復の橋」と位置付けられた。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』2023年5月号より