人間は死んでどこへ行くのか。それは、はじめから決まっているわけではありません。その人が”いま”どう生きているか、”いま”どこへ向かって生きているかによることです。誰でも死ねば行けるところがあるならば、死後は実体的な固定した世界になります。それでは、人間の思いが作り出したこの世を延長した夢の国にすぎないことになります。
人知ではどうしてもわからないのに、人間は自分の死後が気になって仕方ないのです。なんとかして自分の死後をも納得したいのです。
でも、本当に納得できるには、”いまここにある”自分に納得できない限り、自分の未来も、自分の過去も納得できるわけはありません。このことを浄土真宗の仏道は明らかにしているのです。結論から言えば、いまここにある自分に納得するには、この自分にかけられている如来の本願にめざめることのほかにないという信心の仏道であります。いまの自分をさし置いて、過去の自分を悔み、未来の自分を夢みるという生き方を自力といいます。
「願」について、他者にかける自分の願はよくわかる。ところが、自分にかけられている他者からの願は、なかなか頷けないものです。人間が、宗教に触れる契機は、多くの場合「死」の事実に直面し、それを契機として人間のいのちをどう受けとるかという問題が与えられてくるのです。
ずいぶん以前にこんな葬式に出会いました。小さな子どもさんの葬式です。その当時、白い死装束に杖まで持たせて棺に納めました。お別れの時、その子の母親は泣き崩れてしまってもう立てないのです。それでとても火葬場へ行くのは無理だから、お母さんだけ残して出棺しました。
私が、還骨の準備をしている間、ずっと本堂の隅で泣いておられた。母親にちょっと声をかけたら涙声で、「うちの○○ちゃんはどこへ行ったのですか。草鞋をはいて、杖をついて独りでどこへ行ったのですか」と真剣に聞くのです。母親の真情がほとばしり出た問いです。人間の知恵では応えられない問いです。子どもの急死に会った母親も、いくら考えてもわからない。そうかといって骨は自然に帰るのだ、土に帰るのだと説明されても、それだけで納得できないのでありましょう。
「お子さんの行き先がわからなければ、お母さんご自身の行き先を自分が探し当て、自分に納得しなければ、お子さんだってわからないのでしょう。この宿題を○○ちゃんはあなたに残していかれたのでないでしょうか。それだけは確かです」。
私は確かその時、それだけをこのお母さんに申し上げました。
南無阿弥陀仏がその人におこるのは、人間の予定で計れるものではありません。しかし、その時、南無阿弥陀仏の世界に帰るのだということに、深く頷くことができる。その原理は、「如来の真実が信じられて仏の浄土に生まれんと欲え」という念仏往生の本願の呼びかけがあるからであります。
ところがこの如来の呼びかけに直ちに頷くことができない自力に対する執心が、人間に根深く巣食っています。如来は、その執心に縛られてお手あげすることもできないで、もがいている私を見抜いて、さらに自力の信心を翻すために方便の本願をもって、人間の思いと情けの深い執心に身を添えて、この執心の無効なることを知らせようとされているのです。
方便とは、人間の思慮がつくる方法ではないのです。如来のやむにやまれない大悲心の表れが方便なのです。
『真宗の生活 2007年(1月)』「いのちをどう受け取るか」
『同朋』(東本願寺出版部)から・二階堂行邦(東京教区專福寺)
※役職等は『真宗の生活』掲載時のまま記載しています。