幻の子ども像

藤場芳子(金沢教区常讃寺副住職)


 親や大人は良かれと思って子どもに「こうあってほしい」と期待してしまうことがありますが、教育ジャーナリストの青木悦さんはそれを「幻の子ども像」と名づけています。たとえば、朝は起こされなくても自分から起き、好き嫌いなく食事をし、忘れ物をしないで学校へいく。真面目に勉強して授業中には積極的に手を挙げる、と同時に校庭の片隅に咲いている花にも感動するような心をもち、帰宅したらすぐに宿題をして、お風呂に入り、早く寝る、といった具合です。そんなの有り得ないと思いませんか。でも、最近ではそういう親の期待どおりの良い子がいるのだそうです。青木さんはそれをとても心配しています。家庭が学校と同じものさしで子どもを評価する場になっているからです。そのものさしとは成績のことです。私の友人は小学生の時、テストで八十点以上をとってこないと親にとても叱られたそうです。そして八十点以下の答案は見せなくなったということです。子どもは親の期待を敏感に察知して、裏切らないようにと無理をしてしまうのです。


しかし、大人はそれに気づかずに、「幻の子ども像」を子どもに押し付けているのでしょう。子どもたちは気が休まるはずはありません。私たちの思いの中に閉じ込められた子どもたちは今、声にならない悲鳴をあげています。


お釈迦さまが誕生した時に「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられています。「世界で私ただ一人が尊い」とずいぶん独善的な解釈をされることがありますが、これは誤りです。『大無量寿経』という経典にはお釈迦さまが「吾当に世において無上尊となるべし」と声を挙げたと書かれています。無上尊とは、上が無いと書きます。それは比べることができないということで、それほど一人ひとりが尊い存在だということなのです。


私たちは性別も国も家もそれぞれ別々の背景をもって生まれてきます。AさんとBさんを比べて評価することなんてできないし、そもそも比べる必要がないということを「天上天下唯我独尊」や「無上尊」という言葉が私たちに教えてくれているのです。


でも、私たちは一番になろう、最も尊い人・最上尊になろうとして、人と比べて一喜一憂しているのではないでしょうか。


お釈迦さまが自分の子どもにつけた名前をご存知でしょうか。「ラーフラ」といいます。意味は、障碍 、つまり「さまたげ」ということです。自分の心を穏やかにさせてくれないから、さまたげというのです。子どもは大切な存在だから心が揺れるのです。大切に思うからこそ期待をし、心配をし、そして悲しいことにそれがお互いを傷つけ合うことにもなってしまいます。近しい関係というのは本当にやっかいなものです。私たちが「幻の子ども像」から目覚めるのはいつのことでしょうか。

 

『僧侶31人のぽけっと法話集』(東本願寺出版)より


 

東本願寺出版発行『真宗の生活』(2021年版⑤)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2021年版)をそのまま記載しています。

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