愛されていない命は一つもない
尊ばれない命は一つもない
西脇顕真・作
まだわたしが20代前半だったころに想像していたわたしと、現在のわたしは、まるで違う。
就職して3年で結婚、3度の出産も経験した。当時の仕事も、今は辞めてしまっている。現在のわたしを、昔のわたしが見たら、「そんなの選択肢になかったはずじゃない!」と驚愕することだろう。わたしは自分一人で十分楽しんで生きていける人生を計画していたのだから。
まったく思っていたのとは違う未来を生きながら、しかしわたしは、わたしをこの場所に運んでくれたすべてのものに感謝したい、そう思っている。
愛、愛している、愛されている。ちょっと歌を聴けばやたらと使われ、見渡せば簡単に目に触れることができるこの言葉。わたしにとっては、はじめての子どもの寝顔、呼吸のために動いている小さな胸、ほんのささいな成長、そんなものに触れたとき、自分の中からこの言葉が生まれてくるのを感じた。この、親としては自然とも言える気持ちを十分に持てたことは、本当に幸せなことだと思う。愛しているという気持ちは、愛されている相手だけでなく愛している本人をも充足させるものなのだと、わたしは気づかせてもらった。同時に、自分が同じように愛されてきたのだということにも気づいた。「愛されるべき」いのちを持っているのだと。
そしてわたしは、この暖かい存在をまた授かることができれば…と願うようになった。そうして授かったもう一つの命は、今はもうこの世にはいない。
その子は、わたしの胎内だけでしか生きられないという、特殊な状況で命を授かった子だった。その命が失われたとき、これほどの悲しみが存在するのだということも身を持って知った。
この子の存在は今なおわたしの中で生き続けている。まるで崩壊のあとから新しい命が芽吹くように、わたしの中に何かが生まれ、育っている。あの悲しみはもう2度と経験したくはないが、その悲しみを連れてきた娘との出会いは、わたしにはかけがえのない大切なものだ。「命の本質」を、一瞬にして身をもって見せてくれたような娘は、死から目をそらすなと言っているようだ。そらしたくても、あの子の存在がある限り、そらすことができない。そして「死」を見つめ続けるわたしは、「生きていくこと」をも見つめることになっていた。
その後わたしは3人目の娘も出産し、毎日をばたばたと流されるように生きている。それはごく普通の、ありふれた光景のひとつだろう。でもわたしにとっては大切な日常である。そして、他の人々も、それぞれに、かけがえのない大切なものをちりばめた「今」を生きているのだろう。
愛するものが増えていけば、それを失うかもしれない、変化してしまうかもしれないことへの不安や恐怖もつきまとう。でも今この瞬間が、すべての無常の結果であるとしたら、これから先のこともあるがままに見つめ、そこから何かを紡ぎ出していけたらと思う。今のまま同じ形で続いていくことは、悲しいけれどないだろう。しかし本当に大切なことは、決して消えることはないのだから。
川合藤花(「誕生死」(三省堂)を共著にて出版。)
『今日のことば 2006年(4月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。